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8.3 HOLLYWOOD ≫≫

1993.8.2


Chapter.1

 アメリカ、カリフォルニア州。ロス・アンゼルス国際空港。
 L ・Aのこの時期の日中平均気温は二八℃、平均降水量〇mm。一、二月でも気温は一八℃まで上がり、氷点下を記録することは滅多にない。雨量が少なく年間を通して温暖な地中海式気候が、この土地に暮らす人々の陽気な気質を育んでいる。午前中はスモッグが立ち込める日が多いが、今朝は澄んだ青空が広がっていた。風はほとんど吹いてなく、フェンスに沿って植えられたヤシの木がじりじりとした陽炎の中で揺らいでいる。

 午前九時五〇分。上空から一機のジャンボが舞い降りてきた。
 成田発日本航空六二便。乗客の多くは眠りから覚めてまだ程なかったが、空港が見えるようになると機内はにわかにざわつき始めた。一〇時間近いフライトの疲れも忘れ、ほとんどが観光客で占められた乗客の表情はどれも明るかった。
 僕は、その機内の最後尾に近い窓際のシートにポツンと座っていた。表情をこわばらせて、額には汗が滲んでいた。華やいだ空気の中で一人異質な存在なのは明らかであったが、体裁を取り繕う余裕など既になかった。

 つい二ケ月程前にパスポートを取得したばかりで、僕にとってはこれが生まれて初めての海外旅行になる。成田空港を離陸して食事を済ませた後、機内サービスの女性にウイスキーをもらって飲んだのだが、低い気圧の中でアルコールはすぐに全身に回った。そして、つい先ほどまで心地よい眠りについていた。目覚めてからしばらくすると、太陽の光を深く吸い込んで暗い色をしていた海は、次第に輝くような淡く美しいブルーに変わり、やがてカリフォルニアの海岸線へと続いていった。その先には、茶と緑を基調とした大陸が、べったりと広がっている。
 異国に降り立つ感動に気持ちの高ぶりを感じ始めたとき、ふいに猛烈な勢いで乗り物酔いが襲ってきた。飛行機に乗るのは今回が初めてではないが、こんな事は未だかつてなかったことである。
(早く降ろしてくれ)
 こみ上げてくる、感動とはほど遠いものを懸命にこらえながら、僕はただそう祈った。機は上空での旋回を終えてようやく空港に降り立ったものの、なおも滑走路を走り続けた。路面の振動がタイヤから機体へ、そしてシートを伝って僕の胃袋を刺激する。右へ左へ、機が方向転換を行う度に今度こそ駄目だと思った。
 ターミナルが近づくと、手旗を振って機を誘導する地上クルーの姿が、機内に設置された大きなスクリーンに映し出された。
(早く、その旗を止めてくれ)
 僕は彼にそう念じ続けた。
 このようにして、僕の海外空港初着陸体験は終わったのである。

 機内から解放されてからも、しばらくは気分が悪かった。
 夏休みに入ったばかりなので、昨日(時差の関係で日付は同じだが)、成田空港の団体用カウンターの前には、搭乗手続きの順番を待つ人達の長蛇の列が出来ていた。みな服装だけは夏らしく派手で明るかったが、あまりの列の長さに出発前から表情はうんざりといった様子だった。オープン・チケットを持つ僕は、そんな彼らを横目に、誰もいない個人用カウンターに悠々と向かって手続きを済ませた。しかし、入国審査のゲートではみんなと同じ長い列に並ばなければならなかった。
 審査の順番が回ってきて、機内で記入したI−94とFORM・I−791を入国審査官に提出する。とかく愛想の悪いことで評判の審査官だが、目の前にいる肉付きのよい女性審査官の印象は別に悪いものではなかった。続々とやってくる人達の事務的な手続きを延々とこなさなければならない彼らに、歓迎ムードたっぷりに笑顔を振りまけと言う方がどうかとも思うのだが。
「旅行です。」
「滞在は一ヶ月位です。」
 マニュアル通りの簡単なやり取りの後、パスポートにスタンプをもらって審査を終える。荷物はさほど大きくないバッグが一つだったので、機内に持ち込んでいた。入国手続きが終わると、人の流れに従ってフロアーにつながる通路に向かった。
 到着フロアーは、人で溢れていた。出迎えに来た家族連れ。抱き合う男女。目の前を行く誰彼にともなく手を振る青い目の少女。視線の怪しい男。あちらこちらに旅行会社の旗が揚がり、それを手にした添乗員が大声で叫んでいる。人種も各種豊富に揃っていて、僕はまた目が回りそうだった。
 その人込みをかき分けて出口へ進み建物を出ると、いきなり乾いた熱気に全身が包まれた。
(やっと来たんだ)

 自分のオートバイでアメリカを走ってみようと思い立ったのは、今年の二月だった。アメリカに対する憧れは以前からあったが、特にきっかけというものはなく、ほとんど思い付きと言ってよい。
 それからの半年間というものは、実に様々な準備に追われた。オートバイを送るための手続きや、パスポートや国際免許証の取得、航空券の入手と初日の宿の手配、トラベラーズ・チェックや外貨の購入、そして、全てに関わる情報の入手。あちこちに電話をしたり出向いたり、資料を読んだりと、休日の全てをそれらの準備に費やした。長距離ツーリングや海外旅行の経験すらなかったので、やらなければならないことは実に多岐に及んだ。この半年間、それ以外のことはまるで頭になかった。
 今日、いよいよ計画を実行に移したわけだが、成田空港を離陸した時にもこのL・A空港に到着してからも、何故だかまるで実感が涌いてこなかった。乗り物酔いのせいもなくはない。それが、空港の建物を出て熱気に包まれ、強い陽射しを浴び、目の前を走る車の騒音を耳にした途端に沸々と涌いてきた。足元のアスファルトや通りを行き交う車。イエロー・キャブにコンクリートのビル。同じようでもどこか日本とは違う、アクの強い独特な雰囲気。陽射しの強さと乾いた空気のために、街全体のディテールが特別に際立って見えるせいかも知れない。空気の匂いも、また違っていた。
(アメリカなんだ。)
 今のご時世、アメリカに来たからと言ってこれほどの感慨を受ける者もそう多くはないだろう。ただ今の僕には、初めての海外と言うよりも、これから過ごす一ヶ月間への覚悟のような思いが強かった。
 ひとしきり辺りを見回して、並んで客待ちをしているイエロー・キャブに向かった。空港職員なのか、それともイエロー・キャブ協会―そのようなものが実際にあるかどうかは知らない―の人なのか、制服を着た初老の男性が、先頭に停車しているイエロー・キャブのドアを開けてくれた。やはりチップを渡すべきだろうかと考えたが、そのタイミングを逸したまま後部座席に収まると、ドアは閉じられてしまった。日本で予約をしておいたモーテルの名前とアドレスを書いたメモを運転手に渡すと、低いエンジン音を響かせて車は走り出した。

Chapter.2

 高架になったハイウエイをイエロー・キャブは走った。路面はアスファルトではなくコンクリートのように見えるが、タイヤの跡で黒ずんでいる。車線は消えかけた白いペイントや鋲のようなもので曖昧に区切られている。道幅は大変に広く感じられた。僕が乗ったイエロー・キャブはワゴン・タイプで、リアのガラス窓をいっぱいに下ろしていた。そのため乾いた風が適度に車内に流れ込んでくる。その風はさらさらして心地の良いものだった。この地では、気温の高い真夏でもエア・コンディショナーは必要なさそうである。
 窓越しに見えるハイウエイの向こうに広がる町並みには、ビルやマンションなどの高層建築物はほとんど見えなかった。平べったい大きな屋根を乗せた家と、あちこちに頭を出している背の高いパーム・ツリーがやたらと目に付く。地平線は遠く、視界が広い。眩しい陽射しと明るく乾いた空気に、町全体は浮かんでいるようにも見える。場所や時間帯によっては渋滞も起こるらしいが、東京の首都高速などを走るのに比べれば、はるかにストレスを感じることのないドライブだった。
 カー・ステレオからはFM放送が流れていた。乱暴とも思えるほどの早口でD・Jが喋る。何を言っているのか、僕にはさっぱり分からなかった。ゆっくり喋ってもらってもどのみち分からないのだが、東京で聴く日本人D・Jの英語の方がまだ聞き取りやすい。これが本場の英語なのだろうか。もしそうだとしたら、お先真っ暗である。
 遠くに、インター・チェンジのアーチが見えてくる。その三次元の交差は、次第に近づいてきて頭上を越えて行く。交差する通りの名前が白く抜かれた明るいグリーンの標識が、現れては消えた。知らない町の知らない何処かへつながるランプ・ウェイが、幾つも横を過ぎて行った。
(一体、いつになったら着くんだ?)
 L・Aがいくら広いとは言え、すでに結構な距離を走っている。僕の心の奥には小さな不安がポツリと芽生え、みるみるうちにそれは育っていく。態度だけは、悠々として後部座席にふんぞり返っていたが、視線は、標識に書かれた地名を常に追っていた。
 やがて、「HOLLY WOOD」と書かれた標識が現れ、僕は大きく、しかし静かにため息をついた。
 イエロー・キャブは、ゆっくりと車線を変えてハイウエイを測道へ降りて行く。一般道に出ると、対向車が左側を過ぎて行く違和感に慣れないうちに、車は路肩に寄せて停車した。ようやく目的のモーテルに着いたらしい。メーターを見て、財布から取り出した紙幣を運転手に渡して釣りはいらないと言うと、若い黒人運転手は大きな目をクリクリさせてオーバーに喜んだ。
(ボッただろ)

Chapter.3

 ハリウッドという街やこのモーテルを選んだ理由は、特にない。ダウン・タウンからそう離れていない低料金のモーテルという条件で、旅行会社のリストの中から適当に選んでもらった。安モーテルなので決して立派ではないが、その分敷居が高くなく気軽に利用できるだろう。
「Sunset Palms MOTEL」
 建物の壁には、そうネオン・サインが出されていた。まだ明かりは灯されていない。大きな通りに面しているが、椰子に囲まれた落ち着いた佇まいを、僕はすぐに気に入った。三段ほどの階段を上がってドアを引くと、小さなフロントが正面にあった。カウンターの向こうには男性が二人いたが、一人はうつむいたまま書類とにらめっこをしている。
「予約をしてあるのですが。」
 もう一人の男性に伝えると、彼はカウンターに用紙を置いて何か言った。記入しろと言っているようだった。
 早いうちに白状しておくが、僕は英語が得意ではない。はっきり言ってしまえば、ほとんど話せない。高校生レベルかも知れない。いや、中学生レベルかも。とにかく、文章を作って話すということは不可能と言っても何ら差し支えはなく、闇雲に単語を連発するしか能がない。ただ、ヒアリングであれば、相手の言うニュアンスくらいは理解出来るつもりでいる。
「私と同じだ。」そう思ったあなた。そう、同じだ。
 僕は、出された用紙にパスポート番号や日本の住所などを書き込んだ。男性が何か簡単な説明をしたが、何を言っているのかは皆目分からなかった。分かったように相槌を打つのが日本人の悪いところらしいが、チェック・アウト時間や非常階段の場所、その他このモーテルの設備などについての説明に違いない。いずれにしろ大した内容ではないだろう。ヒアリングも怪しいものだなと思いながら、503と書かれた部屋の鍵を受け取って、男が示したエレベーターに向かった。
 三階でエレベーターを降りると、ほぼ正面の部屋が五〇三号室だった。「503」と、銀メッキを施したプラスチック製の数字がドアに貼り付けてある。鍵穴にキーを差し込んで回すと、鈍い手応えでロックが解除された。
 部屋には、枕がある方を壁に付けて、真ん中に大きめのベッドが置かれていた。そして、同じように壁に付けて、ベッドの両サイドに木製の収納と椅子の付いたデスクが並べられている。よくあるビジネス・ホテルのような造りだが、床面積はかなり広かった。ドアから反対側の壁に向かってベッドを避けて歩き、バッグを床に降ろして閉じられているカーテンを開けた。窓も開けると、柔らかい風が室内に流れ込んでくる。すぐ下を、椰子が植えられた歩道を挟んでハイランドAveが通っていた。イエロー・キャブで来たときにはよく分からなかったが、ここから見ると、通りは右側に向かって緩い下りになっている。どうやら、このモーテルは坂の途中に建っているようだった。右手にある街並みが少し低いところに開けて見える。ハイランドAveは大きな通りなのでひっきりなしに車が行き交っていたが、部屋まで届いてくる音は然して気にするほどではなかった。

 スニーカーを脱ぎ捨てて、僕はベッドに仰向けになった。
 機内では、僕の座った横一列の座席が全て空席であった。高い料金を支払ってオープン・チケットを買ったお陰だろうと勝手に解釈している。僕は、行儀が悪いとは思いつつも、徐々に隣の座席への侵略を始め、最後には一列全てを占領して横になった。身体を折った姿勢で長時間を過ごすのは、僕には大変に苦痛なことなのである。すぐに回るアルコールのおかげもあって、九時間半のフライトは充分な睡眠時間となった。時計の上では、夕方に日本を発ち午前中にこちらに着いたことになるので、時差ぼけもなかった。ただ一つ、あの乗り物酔いを除けば快適な空の旅だったと言える。今は眠くもなく疲れてもいなかったが、しばらくはベッドに横になったまま今の心地よい緊張感を味わった。
 そうしたまま、これからの行動予定を考えた。僕のオートバイを積んだコンテナ船が、一カ月ほど前に横浜港を出航している。その船が、予定では今日こちらのロング・ビーチ港に入るはずだった。輸送は、この町を拠点としている日本人が経営する会社に委託した。トラックをレンタルして、横浜港近くの指定された倉庫まで自分でオートバイを運び、それから後を任せてある。
 僕は起き上がって床に置いたバッグをまさぐり、委託をしたT・C社の電話番号を書いてあるメモを取り出した。デスクの上にある電話の受話器を持ち上げて9を押すと、回線は外線につながった。メモにある番号通りにボタンを押すと、サイクルの長いくぐもったような独特の呼び出し音が受話器から聞こえてくる。日本からの国際電話でも何度か耳にしているが、この音を聞くと何故だか僕は緊張する。二・三回その音が響いた後、英語で女性の声が聞こえた。
「もしもし。」
「はい、T・C社です。」
 かまわずに日本語で話しかけると、相手も日本語になる。T・C社のスタッフのほとんどは、おそらく日本人らしかった。
「石川と言いますが。」
「はい。」
「先月横浜からオートバイを送ったのですが、もう着いているでしょうか。」
「石川様ですね、お待ち下さい。」
 彼女は電話を保留した。待っている間に、煙草を取り出して火をつけた。しばらくして保留音が切れ、僕は今回の旅の一発目となる軽いジャブを食らわされる事となった。
「ええ。船は昨日到着しております。」
 良かった。いいタイミングだ。
「そうですか。では今日伺ってもよろしいでしょうか。」
「いえ、船は着いているのですが、コンテナが降りるまでにはまだ数日かかるんです。」
「・・・?」
 どういう事だ。僕には彼女の話が飲み込めなかった。
「船にはたくさんのコンテナが積まれておりますので、全部が降りるまでには一週間ほどかかります。石川様のオートバイが入ったコンテナがいつになるかは、今はまだ分からないのです。書類もまだ届いていない状況ですので、今日お越し頂いても。」
 何と言うことだ。飛行機の便を一度変更して今日に合わせて来たのだが、積み荷を降ろす時間など考えてもみなかった。しかし、言われてみれば確かにそれもそうである。遠くからだが、港に停泊しているコンテナ船を何度か見たことがある。船には、あの大きなトレーラーが運んでいるものとは思えないくらいに一つ一つが小さく見えるほどの、たくさんのコンテナが積まれていた。それを一日で全部降ろせとは、確かに無茶な話だ。おまけに、税関の複雑な手続きを考えれば尚更である。しかし、素人の僕にそこまでの考えが及ばなかったのも、当然と言えば当然と言えなくもない。
 仕方がないので、僕はモーテルの名前と電話番号、部屋番号などを相手に伝え、オートバイが降りたら連絡をもらえるよう頼んで受話器を置いた。
(一週間も何をすればいいのだ)
 しばらく考え込んだが思い付くこともない。そもそも、この町は明日には出る予定だったのである。取りあえず外にでも出ようと思い、僕はジーンズをひざ下までのゆったりしたパンツにはき替えた。
 部屋を出てドアを閉め、鍵穴に鍵を差し込んで回す。ロックがかかる感触の代わりに、金属のねじ切れる感触がやんわりと右手に伝わってきた。
「・・・・。」

Chapter.4

 ちぎれた鍵をフロントに預け、一筆書かされてから僕はハイランドAveに出た。
 通りは、緩くカーブしながら南に向かって少し下っていた。北の方角の丘にはハリウッド・サインがあり、さらに数kmも行けば、ハリウッド映画の中心地であるユニバーサル・シティに出られる。しかし、行ってみる気にはならなかった。
 南に向けて歩き出すと、すぐ右手にホリディ・イン・ハリウッドが建っていた。全米にチェーン店を持つ大手のモーテルで、僕の宿泊するモーテルとはまるで格が違って見える。大きな入り口の前には車寄せがあり、手前の広いスペースには大型の観光バスが数台着けていた。
 通りを走る車を眺めながら歩いていると、その中にボンネットのない車が一台混ざっていた。さすがは車検のない国である。二〇〇メートルほど下ると、ハリウッドBlvdとの大きな五差路に差しかかる。信号待ちをしていると、すぐ横で突然にタイヤのきしむ音がした。何事かと思って見ると、赤信号に気付くのに遅れた四輪駆動車のドライバーが急ブレーキを踏んだようだった。幸い衝突は免れたが、すぐ前で停車していた乗用車の女性は驚いた様子でバックミラーを覗いている。そして四輪駆動車のドライバーはと言えば、これが手をたたいて大笑いだ。「まいった。まいった。」とでも言う風に。これも国民性か。
 交差点を渡ってハリウッドBlvdを東に歩く。見るからに観光客風の格好も嫌だったので、カメラやガイドブックは持ってこなかった。一〇〇ドル分のトラベラーズ・チェックとパスポート、それに煙草だけをポケットに入れて、僕は通りをぶらぶらと歩いた。そもそも市内観光に来たわけではないのだという、いささか諦めの悪い思いがあったのも確かである。

 ハリウッドが最も華やかだったと言われる一九三〇年頃、この辺りはハリウッドのメイン・ストリートであった。それが今日では、ロデオDrvやメルローズAveなどにその地位を奪われている。ロデオDrvには世界中の超一流ブランド直営店が軒を連ね、またL・Aでの若者の流行はメルローズAveから生まれると言う。
 通りを歩いていると、ハリウッド・スターが描かれた有名な壁画に出会った。少し先には、皿を引っくり返して何枚も重ねたようなキャピトル・レコード・タワーも見える。通りの至る所で、映像や写真などで馴染みの深いハリウッドらしい風景を見ることが出来る。しかし、街はすでに時代に取り残された古い遊園地のようでもあった。セブン・イレブン、雑貨屋、ポスト・オフィス。それらを見付けては中に入り、レポート紙とマジック、切手、煙草だけを僕は買い求めた。
 ハリウッドへは観光で訪れる人が多いらしく、カメラを手にして数人で歩く白人の姿を多く見かけたが、日本人の姿を見かけることはなかった。やはり、皆流行の通りへと足を運ぶのだろう。確かに、ここには過去の栄華はまるで残されていない。しかしこうして歩いていると、他人の視線が気にならない事に気が付く。東京に暮らす人達が隣人に無関心で、ポーカー・フェイスで通りを闊歩しているとは言え、他人の視線を気にしている人は多い。そして、逆に他人を観察もしている。まとわりつくようなその雰囲気は、街を歩いていて愉快なものではない。それが、この街にはない。誰もが気ままに通りを歩き、他人のことなどは気にも留めていない。立ち止まって、街灯にもたれ掛かってぼんやりしていても、周囲に流されることなく自分自身の存在を感じることが出来る。誰も知る人のいない街で、完全に独りきりになれる解放感に、僕は酔った。人々にあるのは、他人を気にしない開けっ広げな雰囲気である。この違いが、似たような格好をした、個性のない人が東京に繁殖する理由なのかも知れないと思った。
 アメリカの都市が様々な問題を抱えている事は承知しているが、初めての異国の地で、苦悩の中滑走路を引きずり回されてからまだ数時間。僕はこの国が好きになっていた。

Chapter.5

 モーテルに戻り、フロントで怪しい単語を連発して宿泊を一日延ばしておく。ここには一泊だけの予定だったが、オートバイが届かないのでは連泊する他ない。部屋に戻ると、どうやって取ったのかは分からないが、鍵穴の奥深くに刺さったままだった鍵の半分はなくなっていた。中に入って窓をいっぱいに開け、外の空気を入れる。街は急速に暗くなり始め、ハイランドAveを流れる車の、色の見分けが付きづらくなっている。車のヘッド・ライトやモーテルのネオン・サイン、街灯の明かりが浮かび上がり、昼間の街の形が消える。代わりに、街角とそこを行き交う人々を思い出させる街の匂いが、部屋に満ちてくる。不思議とその匂いは、妙に懐かしいように感じられた。
 僕は服を脱いでシャワー室に入った。中にバスタブは無く、頭上に固定されたシャワーがあるだけの、実にシンプルな造りだった。シャワーを済ませ、安物の石鹸による肌のつっぱり感や髪のきしみ等はこの際気にすることをやめ、新しいTシャツに袖を通してジーンズを履く。新しくなった鍵を手に部屋を出て、慎重にゆっくりとドアにロックをかけた。

 フロントの横にある通路を行くと、奥がレストランになっている。中には、窓際に一組中年の男女が座っているだけで、他は空席だった。僕は、その男女から三つほどテーブルを隔てた、やはり通りに面した窓際の席に座った。大きな窓ガラスの向こうでは、街のネオンを背景にして、車のヘッド・ライトやテール・ランプの明かりが、音もなく流れていた。愛想の良いウエイターがすぐにメニューが運んできた。英語で書かれたメニューを全て理解する事は出来ないが、注文はステーキとビールに決めている。彼が幾つか名前を挙げたビールの中から僕はハイネケンを選び、とにかく「Steak」と書かれた料理を指して彼に頼んだ。
 すぐにビールとパンがテーブルに置かれ、しばらくしてステーキも運ばれてきた。ステーキは、よく言われているようにボリュームは満点だが味は大味だった。それでも、僕には充分な料理であった。元来、スーパーで売られている安くて堅い肉しか食べていないのである。
 二本のハイネケン・ビールとたっぷりのステーキを平らげたところで、皿を下げに来たウエイターがもう注文はないかと尋ねた。ブランデーを注文すると、彼は承知したふうに空いた皿を手に下がって行った。それから、すぐにグラスに入ったブランデーを運んできて、テーブルに置いた。漂う、むせるような香りを鼻先に感じながら液体を喉に流し込むと、これがまた格別に旨く感じられた。結局、その後二杯のブランデーを飲み干してから、上機嫌で僕は部屋に戻った。

 ほろ酔い気分で部屋に置かれたデスクに向かい、昼間買ったばかりの煙草を開けて火をつけた。ガイドブックを開き、しばらくそこに書かれてある活字を追っていたが、次第にアルコールも回り始め、急激に睡魔が襲ってきた。
 僕は、ジーンズを脱いでベッドにもぐり込んだ。日本から持ってきた小さなラジオのチューニングを、適当なFM局に合わせる。L・Aには、AMとFMを合わせると八十以上もの放送局がある。東京でも、短波放送を除けば聞くことの出来る放送は一五局ほどしかないのだからかなりの数である。
 小さなラジオからは、初めて耳にする曲が流れていた。部屋を完全に閉めきっておくのは好きではないので、日頃からそうしているように窓は開け放しておいた。ここは五階だし、よじ登ってこられるような造りでもないので心配はないだろう。不用心ではあるが、もともとそういうことには無頓着なのである。それに、窓から流れ込んでくる外の匂いが僕は好きだった。薄い布団にくるまり、今ここに独りでいるという現実を、とても贅沢なことに感じていた。
 オートバイの事や、明日は何をしようかなどと目を閉じて考えていたが、時折カーテンを揺らす風の心地よさに、たちまち僕は眠りについた。




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