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9.3 GREARY ≫≫

BAYTOWN


 メキシコ湾が内陸へ大きく入り込んだアラバマ・ベイ。アラバマ川とトムビグビ川がここに注ぎ込んでいる。
 海岸線をほとんど持たないアラバマ州だが、アラバマ・ベイを囲むようにこの部分だけが内陸から伸びてメキシコ湾に沿っている。その海岸線の長さは、直線でおよそ六〇マイルほど。アラバマ州が伸びていると言うよりも、アラバマ州の海岸沿いの土地にフロリダ州が食い込んでくるのを、何とかここだけは阻止したといった感じである。
 アラバマ州の州都はモンゴメリーだが、最大の都市はバーミングハムで、ここでは人口の六〇%以上を黒人が占めている。かつては、州人口の四五%を占めるほどの黒人奴隷がアラバマ州にいた。それが他の南部諸州と同様に黒人比率が高い理由であり、また差別意識が根強く残っているという点でも例外ではない。


 昨夜の女性は、今朝はフロントにはいなかった。ちょっと残念だ。
 今日は朝からの雨で、レイン・ウエアを着てモーテルを出るのはこれが初めてとなった。アラバマ・ベイに架かる橋を渡り、それほど走らないうちにミシシッピ州に入る。ミシシッピ州もまた、州境でアラバマ州と線対称となるような形をしていて、海岸線はおよそ七五マイルとやはり短い。こちらはルイジアナ州に食い込まれている。
 ミシシッピ州は古くから綿花栽培の盛んな州である。それ故に工業発展が遅れ、個人所得の平均は合衆国五〇州中最も低く、一位のワシントンD・Cの半分ほどしかない。だが、個人所得の総額となると順位は大きく上がる。これは、州内における貧富の差の大きさを表している。農業が主要産業となる州は、比較的に平均個人所得は低い。しかし、それがイコール貧困となるわけではない。農業中心で平均個人所得は低くても、美しく豊かな自然に恵まれ、物価が安く貧富の差が小さな州は豊かだと言える。しかし一方で、カリフォルニア州やニューヨーク州、ワシントンD・Cなど、平均所得は高くても極端な貧富の差がある州は豊かとは言えない。そこには裕福な者もいれば、極端に貧しい人達も隣り合わせに暮らしている。そして、それはひいては、犯罪の増加や教育やモラルの低下などにつながって行く。これは、現在のアメリカが抱える最も深刻な問題の一つでもある。その原因は、これまでにアメリカが受け入れてきた多くの移民によるものより、かつての奴隷制度が生み出したものの方が大きいのではないかと思う。
 一八六五年、奴隷制度廃止を定めた憲法修正第一三条が議会で可決、成立された。翌六六年、合衆国市民の平等を定めた憲法修正第一四条可決、六八年成立。六九年には、全合衆国市民に選挙権を保証した憲法修正第一五条が可決、成立した。
 南北戦争が終結した一八六五年以降、アメリカ合衆国の人種差別撤廃に向けてのこれらの動きには目覚ましいものがあった。しかし、過去の奴隷制度は、その後一世紀以上続く差別を生んだ。何世代にも及んできた確執が完全に消える日が訪れるには、今後さらに何世代も待たなくてはならないだろう。それすらも楽観的かも知れない。


 さて、海岸線に沿うように走るI−10は、海岸線の短いミシシッピ州を一時間あまりで走り抜けてしまう。そして、ハイウエイはルイジアナ州へ入った。
 うまい具合に雨が上がっていた。ちょうど大きな湾に架かる橋に乗ろうとする頃だったのである。橋は、キー・ウエストへ続く海上ハイウエイを思い出させるほど長いものだ。雨が降り始めるときも突然だが、移動するにつれ天候が回復に向かうのもまた急激で、太陽に照らしつけられた白い橋は眩しかった。僕は橋のすぐ手前でオートバイを止め、レイン・ウエアを脱いだ。そして、長い長い橋を渡り終えるといよいよニューオーリンズに入る。
 ニューオリンズと言えば、真っ先に思い出されるのがジャズだろう。しかし、今日では世界中に広がったジャズが、何故ニューオリンズで生まれたのか。そして、ニューオリンズでなければならない理由はあったのか。それを探って行くと、植民地時代にまで逆上ることになる。複雑なので簡単にまとめよう。
 ニューオリンズはルイジアナ州の主要都市である。ルイジアナ州の州都は、ニューオーリンズの北西およそ七五マイルにあるバトン・ルージュに置かれている。
 まず、合衆国建国頃までにかけてのルイジアナと、現在のルイジアナ州とは異なる事を知っておかねばならない。以前のルイジアナとは、南はニューオリンズから北はカナダとの国境までのミシシッピ川以西、ロッキー山脈に及ぶまでの広大な土地を指していた。一七世紀後半、ミシシッピ川を下って来たフランス人が、当時のフランス国王ルイ一四世の名にちなんでこの地にルイジアナと名付けたのが始まりである。ルイジアナは、まずフランスの領土として一七三一年までに植民地として完成し、一七一八年に建設されたニューオリンズがその中心となった。
 その後一七六二年から一八〇〇年までの間、ルイジアナはスペイン領となった。その頃は現在のフロリダ州もスペインの領土下にあり、一七八九年に誕生した当時のアメリカ合衆国の領土は、現在のフロリダ州全域とアラバマ・ミシシッピ両州の南端部を除いたミシシッピ川以東で、現在の三分の一ほどの範囲でしかなかった。しかも、アパラチア山脈西側の主な住民はチェロキー族など先住民族で、白人の人口はまだ希薄だった。
 一方ヨーロッパでは、この一七八九年にフランス革命が起こった。革命の波はフランス国内だけには留まらず、やがてイギリスなどヨーロッパの周辺諸国へと次第に広がっていった。海を隔てたアメリカにも、その波が押し寄せて来ないとは限らなかった。誕生したばかりのアメリカにとって、ミシシッピ川以西に広がる隣接した広大な土地が他国の領土であるという事は、自国への侵略の脅威に他ならなかったのである。それは、自分たちの母国でもあるヨーロッパ諸国において、古代から繰り返されてきた侵略の歴史から見ても明らかであった。また、大河ミシシッピとその河口付近が、交易路として非常に重要な意味を持つと言うこともあって、ルイジアナとはアメリカ合衆国にとっては何としても手に入れたい土地であった。
 フランス革命に端を発して起きたフランス対イギリス等同盟国の戦争は、一八〇二年にひとまずの休戦をみた。そこでヨーロッパでの混乱が落ち着きかけたと見たナポレオンは、一八〇〇年一〇月に、ルイジアナを譲り受ける条約をスペインとの間に交わした。一方で、フランスが再び新大陸に目を向けたことを知ったアメリカ政府はいっそう危機感を増した。当時の合衆国領土も、独立前のイギリス領だった頃に、三〇年以上にわたって続いたフランスとの戦いでようやく勝ち取ったという経緯がある。
 しかし、休戦中だった対仏同盟戦争が再びくすぶり始めていた一八〇三年。アメリカ合衆国に思いもよらぬ幸運が訪れた。当時のアメリカ大統領であったトマス・ジェファソンが、一五〇〇万ドルでナポレオンからルイジアナを購入したのである。ヨーロッパでの戦いで新大陸どころではなくなったというのがナポレオンの正直な考えなのかも知れない。しかし合衆国にしてみれば、それまでの自国の領土に匹敵する規模のルイジアナを、破格の値段で手に入れたことになった。現在超大国へと成長したアメリカにとって、それは史上最も功績のある不動産取引であった。もし、この「ルイジアナ購入」がなければ、アメリカ合衆国という国は現在に存在しなかったかも知れないのである。
 これによってニューオリンズは、建設から八五年の間に、フランス人からスペイン人、そして再びフランス人の手を経てアメリカの統治下に置かれる事になった。また、この地方も周辺の地域同様に広大なプランテーションが開かれ、一七世紀始め以降、労働力として多くの黒人奴隷が連れて来られていた。
 これで、主な登場人物は出揃った。
 白人は、奴隷である黒人の女性に自分たちの子孫を産ませた。奴隷とは、人ではなく奴隷主の所有物だったのである。この白人と黒人奴隷との間に生まれた混血児は、ニューオリンズやルイジアナ州だけに存在したわけではない。しかし、他の地方では黒人の血を引く子孫はやはり黒人奴隷として扱われたのに対して、フランスの統治下にあったニューオリンズでは、彼らは白人と同等の身分を保障されていた。彼らはクレオールと呼ばれ、白人同様の教育を受け西洋音楽を学ぶことも出来た。クレオールは、自らも自分たちと黒人とを差別していたが、南北戦争が終わって人種差別撤廃を進める政府に対する白人の反発のあおりを受け、やがて彼らも他の黒人同様の扱いを受けるようになる。
 フランスやスペインの領土下に置かれていたニューオリンズでは、当初から様々なカーニバルが行われてきた。毎年二月に行われるアメリカ最大のカーニバル、マルディ・グラなどもその一つである。華やかなパレードや、スペイン、フランスそれぞれの音楽など、町は常に多様な音楽に溢れていた。そうした環境の中で、もともと音楽好きだった黒人たちは独自の音楽を楽しんでいた。彼らの音楽は、きちんとした教育を受けていないために楽譜に頼らない即興的なものであり、またブルー・ノートと呼ばれる独特の音階を持っていた。ブルー・ノートとは、「ミ」と「シ」がそれぞれ半音ずつ下がった黒人特有の音階のことである。もともとアフリカには、この「ミ」と「シ」を除いた五音階しかなかったため、それを黒人たちが自分たちなりに表現して出来た音である。その黒人たちの音楽の中に、白人に差別を受けるようになったクレオールが参加するようになった。ここで黒人音楽とクレオールが持ち込んだ西洋音楽とが出会い、そこから生まれた音楽がジャズへと発展していったのである。やがてジャズは、影響を受けた白人たちにも演奏されるようになった。彼らの演奏は、ディキシー・ランド・ジャズと呼ばれた。そして、メンフィス、セント・ルイスとミシシッピ川に沿って北上し、シカゴへ渡ってからより都会的に洗練されることとなった。
 その後ジャズは、時代と共にニューヨーク、フロリダ、L・Aとその中心地を変え、やがて世界に広がっていった。白人、黒人それぞれの感覚の違いもあり、スイング、バップ、モダン、クールなど、演奏のスタイルも時代や地域によって変化して行き、その都度それを代表する多くの名ミュージシャンが輩出された。また、禁酒法や戦争、恐慌、好景気などの社会背景にも大きく影響を受けていった。  簡単にはまとまらなかったが、このように長く複雑な歴史の中で特異な位置にあったことが、ニューオーリンズがジャズ発祥の地となった所以なのである。


 ニューオリンズのダウン・タウンに入ってから、中央に並木が植えられた片側三車線ほどの通りに僕はオートバイを止めた。街を見回してみると、建物などにもフランスの雰囲気が色濃く残っているのがよく分かる。 近代的な高層ビルも見えるが、今いる辺りの建物は並木に隠れてしまうような低い造りのものがほとんどだった。建物の多くは、クリーム色をした重厚なコンクリートで造られていて、窓枠などに曲線や細工を施しているものが多い。どこにも突飛な色が目に付かないのは、アメリカの他の多くの都市と同じである。少し違っているのは、近代的で冷たい印象の建物が少ないおかげで、街並みが特に優しく見えることだろう。もちろんどこかの国のように、ビルの派手な看板やネオン、捨て看板、放置自転車、歩道にはみ出した商品などはあるはずもなく、チラシや煙草の吸い殻も当然足元には落ちていない。


 ニューオリンズに敷かれた道路は、碁盤の目状に整えられている。激しく車が行き交う大きな通りは少なく、のんびりと街を歩くには適しているかも知れない。オートバイを残して歩いていると、路面に緩く曲線を描いて軌道敷きが走っているのが見える。路面電車の軌道敷きである。「欲望という名の電車」という古い映画があったが、かつては、この街を「欲望」と名付けられた電車が実際に走っていた。街には、当時の駅の姿が描かれた巨大なコンクリート壁も残っている。他にも、「極楽」「墓場」などという一風変わった名前の電車が走っていた。どのような意図で名付けられたのかは知らないが、ジャズの町ニューオーリンズに似つかわしい気もする。現在、僕たちが洒落たクラブでグラスを傾けて聴くジャズも、元は、ストーリヴィルと呼ばれる売春目的の歓楽街辺りにある、売春宿やキャバレーで育ったダンス音楽なのである。

  

 ニューオリンズを後に、ミシシッピ川の大きな河口付近を回ってI−10は州都バトンルージュを抜ける。小さな橋を幾つも渡るが、この辺りはまるでジャングルである。水面が揺らめく沼のような底から植物が伸びてきて、一面を鬱蒼と覆っている。ワニだの大蛇だのが生息していそうな不気味な湿地帯はしばらく続いた。何か珍しい動物でも見られないかと、走っていてもそちらばかりに気を取られる。
 夕方六時近くになって「TEXAS」と書かれた標識が見えてきた。乾いた荒野を風任せに転がる根無し草、砂漠、西部開拓、牧畜とカウボーイ、石油、アメリカ横断鉄道。誰もがある種のロマンを持ってイメージするアメリカの一面が、このテキサス州には凝縮されている。どうにもやるせなくさせるスライド・ギターが奏でる音楽のイメージも僕には強い。テキサス州に入ったからと言って、周囲の様子が突然変わるものではない。しかし、ここに入ると何故だか感慨深いものがある。エルパソ、ヒューストン、ダラス、サンアントニオなど個性的な都市揃いだが、州都はオースティンになっている。
 ヒューストンから二五マイル程手前のベイ・タウンで僕はハイウエイを降りた。ガルベストン・ベイという湾に面しているからベイ・タウンなのだろうか。よくある話だ。


 モーテルに部屋を取ってからGPZを磨いてやり、シャワーを浴びてからそそくさと食事に出掛けて来たが、今、僕の前に置かれているのはビールではなくコーラである。テキサスでコーラ。一日の終わりに、僕なりのロマンは崩れていた。




走行距離 七八七km/一三一五九km
九月二日  二〇:三五


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