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8.21 NEWYORK ≫≫

BINGHAMTON


 朝、モーテルにしては珍しくモーニング・サービスをやっていたので頼んでみた。さすがは大手だ。しばらく待って、部屋に運ばれてきたのはトレイに乗せられた一つのパンだった。
 パンをかじりながらカーテンを開けると、先ほどまで雨が降っていたようだ。路面が濡れている。階下に降りてフロントにキーを返しに行ったが、昨日のおじさんの姿は今朝はなかった。昨夜の礼を言いたかったのだが。


 オートバイに荷物を縛り付け、曇り空の下出発。
 I−90、190を走らせピース・ブリッジを目指す。どちらも有料道路になっているので二度料金所を通過することになる。ピース・ブリッジに到着すると、橋の両側にずらりと並んだアメリカとカナダの国旗がまず目に入った。この橋の向こう側はカナダだ。
 橋の途中には、高速道路の料金所のような検問所のブースが幾つか並んでいる。僕は、順番待ちの車の列の後ろに並んだ。少し進んでは止まり、また少し進んでは止まる。おそらく、ほどんどの車がナイアガラの滝を見物に来た観光客なのだろう。ナンバー・プレートに書かれた州の名前は様々だった。
 国境の検問所と言っても、パスポートを見せる程度の簡単な手続きなので、料金所を通過するのと同じくらいの早さで流れて行く。やがて、僕の番になった。
「パスポートを見せて下さい。」
 ブースの中の女性はそう言った。僕は、用意していたパスポートを係の女性に手渡した。
「モーター・サイクルのライセンス・ナンバーを。」
 ペンと用紙を手に彼女は言った。
「I have a lost.」
 ハイウエイ・パトロールにも止められず、何の問題もなくここまで来られたことで、幾分図々しくなっていたのは確かだった。多少は緊張したが、あらかじめ用意していた台詞を僕は吐いた。しかし、当然と言えば当然だろう。ここは国境なのだ。キョトンとした彼女の顔には次第にクエスチョン・マークが浮かび、その表情を見ていた僕は、チャーミングだななどと思っていた。
「あちらの建物に行ってください。」
 彼女は、すぐ隣にある建物を指してそのようなことを言った。それから、ブースの中にあるマイクを取った。怪しい日本人がこれから行くとでも報告しているのだろう。その様子を見ていた僕は、さすがにやばかったかと思った。しかし、堂々とその建物のドアを開けた。オートバイは間違いなく自分のものだし、それを証明できる書類も揃っている。何としても食い下がってやろう。腹をくくると言うより、僕はそう開き直っていた。
 建物に入ると、やはりすでに連絡は入っているようだった。三〇代半ば位に見える白人男性が声をかけてきた。彼は何か言ったが、何と言ったのかが分からない。僕は、オートバイを日本から船で送ってきたことを証明する紙切れや、日本で使用していた時の車検証などを取り出して彼に見せた。しかし、日本語で書かれた車検証が役に立つとは自分でも思っていないので、手にした時は苦笑した。信憑性は増すかも知れないが、ハッタリでしかない。
 効果のほどは分からないが、その車検証に書かれている漢字や数字、アルファベットを何とか理解しようと、彼は真剣に見ていた。
 「自動車予備検査証番号」「定格出力」「類別区分番号」
 これは我々日本人にとっても難解な文字だ。難しい表情のまま彼は用紙を裏返した。しかし、そこは白紙だった。まじめで人の良さそうな彼が少し気の毒に思えてきた。
「これは自分のモーター・サイクルです。これは日本から運んできたという証明書です。」
 たどたどしい英語で説明を加える。嘘は付いていない。
「ライセンス・プレートは途中で盗まれたんです。」
 これは嘘だった。しかし、僕の顔と手元の書類とを交互に見ている彼の表情には、事の次第を何とか把握しようと努めている真剣さが表れていた。こちらもこんなところで挫折するわけにはいかないので真剣に訴えかける。
「L・Aからここまで来たのか?これからどこへ行く?」
 そう言ったとき、彼の表情は少し和らいで見えた。
「ニューヨーク、フロリダ、それからL・Aに戻ります。」
 すると彼は、誰かに相談することもなく言った。
「OK。行っていいよ。トラブルにならないよう地元の警察には連絡しておく。気をつけて、いい旅を。」
 なんていい人なんだ。思わず僕は感動した。そして、礼を言ってから彼と握手を交わした。やり込めたなんていう思いはない。彼は本当に親切な人だ。多少の後ろめたさはあったが、僕だってここで諦めるわけにはいかない。ひょっとすると、プレートを盗まれたという話も、彼は本当は信用していないかも知れない。
モーターサイクルは確かに彼のもののようだ。せっかく日本からやって来て旅をしているのにそれを止めるほどのことでもないだろう。
 都合のいい解釈ではあるが、彼がそう考えていると思うことにした。アメリカ人(彼はカナダ人かも知れないがどちらでも大差ないだろう)ってのは、そんな考え方ができそうな気もしなくはない。細かいことを言ってればキリがないのだ。日本人はそんな細かいことを突っつき回すのが好きだが、いずれそれが巡り巡って自分に戻ってきて窮屈する目になる。まあそれはともかく、彼には心から感謝している。


 晴れてカナダ入国の青いスタンプをパスポートに押してもらい、ピース・ブリッジを渡る。ここからはカナダ・オンタリオ州だ。
 何もカナダに渡らなくても、アメリカからでもナイアガラの滝を見ることはできる。しかし、カナダ側から見る方が迫力があるとガイド・ブックに書いてあった。それで、僕は苦労して国境を越えてきたのだった。五大湖の一つオンタリオ湖が先か、カナダのオンタリオ州が先か。つまらないことを考え始めたが、結論が出そうにないのですぐに忘れた。
 アメリカの標識はすべてマイル表示だったが、カナダは日本と同じメートル法の国だ。キロメートルで書かれた標識を見ると、日本を発ってまだ二十日足らずだというのに妙に懐かしい気がする。
 ガイド・ブックに従って、クィーン・エリザベス・ウエイのExit20で一般道へ降りる。しばらく走ると、滝の近くの駐車場に着いた。オートバイを停めると、滝があると思われる方向に人だかりが見える。
 人垣の向こうは、一面が濃い霧のような水しぶきに包まれていた。そして、低い音が地鳴りのように周辺一帯に轟いている。これはひょっとしてすごいかも知れない。そう思い、僕は心をはやらせて人込みに混ざって行った。
 そこには、ナイアガラ川の堂々とした流れが柵の向こうにあった。今立っている場所と川面との高低差はそれほどはない。水深はどのくらいあるのか分からないが、濁った水が荒々しく流れる様は、見ていて恐ろしくなるほどだった。ここに落ちたらどうなるんだろう、とは恐らく僕以外の人も考えたはずだ。左手の方が滝になっていて、幅の広い流れが突然宙に消えている。不思議な光景だった。大勢の観光客がにぎにぎしく騒いでいるようだが、声は滝の音にかき消されて聞こえない。
 滝が落下している場所へ歩いて行ったが、下から立ち上ってきた水しぶきが遙か頭上まで広がっていて、滝壺の様子はよく見えない。唸り続ける轟音が、大量の水が落ちる迫力に拍車をかける。すさまじい迫力だった。こんな時は、誰かに背後に立たれると嫌なものだ。大勢の観光客で賑わっているので、そうも言ってはいられないが。
 眺めていると、滝壺の近くを船が漂っていた。「Maid of the mist」(霧の乙女)という観光船だ。アメリカ、カナダ両方から出ていて、六ドルから八ドルくらい出せば乗ることができる。ここからだと小さく見える船には、青いレイン・ウェアを頭からすっぽりかぶった人達が、この船狭しと立ったまま乗っている。まるでディズニーに出てくる小人たちのようだ。見ていると、これはこれで楽しめる。
 滝と、滝壺でさまよえる小人たちをひとしきり眺めた後、土産物でも買おうと思って売店に足を向けた。店内は、夏休み真っ只中ということで、大勢の客でごった返していた。うろうろしていると、若い日本人女性グループの姿も見える。僕は、小物を幾つか選んでキャッシャーで支払いをした。ここではアメリカのドルが使えるので、一〇ドル紙幣を出したが、釣銭は当然カナダのコインである。記念にはなるが、この先使いようがない。
 駐車場に戻ってオートバイに跨り、マイルの国へ帰ることにする。走り出すと、駐車場を出たところに警官が立っていた。じっとこっちを見ている。通り過ぎてからバック・ミラーをのぞくと、まだこちらを見ている。検問所からの連絡を聞いた警官か、それともただのオートバイ好きの警官か。そのどちらかならいいのだが。そこにじっとしていてくれることを、僕は願った。そして、その願いは叶った。


 カナダに入るとき以上にアメリカ側に戻るのは簡単だ。パスポートを提出するだけである。
 僕は、再びI−90に乗って東に向かった。南を見ると、いつの間にか空は真っ黒な雲に覆われている。北にはすっきりとした晴れ間が広がって見えるのだが、不幸にも僕の進路は南だ。
 シラクースの手前でI−81に入り南へ。文字通り、お先真っ暗だ。そのまま落ちてくるのではと思えるような黒く重そうな雨雲が、行く手に待ちかまえている。僕は、路肩にオートバイを停めて、レインウエアを着た。
 進むに従って少しずつ辺りは暗くなり、突然に大粒の雨が落ちてきた。雨脚は激しくなり、また雷。そして、バケツをひっくり返したような猛烈な雨が盛大に落ちてくる。よく大雨をバケツをひっくり返したようなと形容するが、この雨は、ひっくり返したバケツの大きさが違った。
 そのうちに、何も見えなくなってくる。確認できるのは、すぐ前を走っている車のテール・ランプだけだった。道路の端がどこまであるのかさえ分からない。もし誰かが誤って道路をはずれて落ちてしまえば、おそらく後続車もこぞって落ちて行くに違いないだろう。僕は、それは嫌だ。路肩に停まって避難している車のハザード・ランプが、時々うっすらと浮かんで見えた。車に比べると、オートバイのテール・ランプは小さく、一つしかない。追突されないかと冷や冷やしたが、次第に後ろに気を使う余裕さえもなくなった。日本国内仕様だと、GPZにもハザード・ランプが付いているのだが、輸出モデルには付いていない。今は、それがあって欲しかった。
 さらに雨脚が激しくなる。日本じゃ台風でもここまで降らないと呆れたが、とうとうさっぱり何もかもが見えなくなってしまった。心細い思いでハンドルを握っていると、EXITの標識が横を過ぎた・・・ように見えた。
「絶対降りる。」
 僕は、声に出してそうつぶやいた。
 しかし、何とかハイウエイから逃れることはできたものの、前を走る車がいなくなると、何を目標にすればよいのか分からなくなってしまった。何としても、道路からは落ちないようにしなければならない。僕は、ほとんど真下の路面を睨みながらとろとろと走った。真下のアスファルトが草むらに変わったら、行ってらっしゃいだ。一般道へ続く道は弧を描いて下っているようだったが、そこを直っすぐに進んでいる間抜けな自分の姿が脳裏に浮かんだ。
 無事一般道に降りてしばらく行くとレストランが見えた。砂漠のオアシスとはこのことだ。意味が違うが。急ぎたいが急ぐこともできず、僕は、ゆっくりと店の前のスペースにオートバイを入れた。


 コーラとコーヒー、それと、さほど腹は減っていないが、サンドウィッチを注文した。カウンターでしゃべっている男や、隅に一台だけ置かれたプールでビリヤードをしている男たちを眺めながら雨が上がるのを待つ。みんなも雨宿りなのか。それとも、地元の人達でいつもこうして集まっているのだろうか。
 時計の針は、もう午後六時を過ぎてしまっていた。今日はペンシルバニア州のスクラントンまで走る予定だったのだが、とてもそこまで行けそうにはなかった。
 一時間近く待っただろうか。雨が上がり、晴れ間が広がりかけているのが窓の向こうに見えた。僕は、急いで勘定を済ませ表に飛び出した。念のためにレイン・ウエアーを着てI−81に戻る。


 北の空はすっきりと晴れ上がり、頭上にも雲はなかった。しかし、南の空には今も真っ黒な雲が重くのしかかっていた。南に向かってオートバイを走らせていると、ゆっくりと流れるその雲にすぐ追いついてしまう。休んでは走り、また休んでは走り、追いつくことのないように雨雲について行く。
 左手の土手の上を走る対向車線で、真っ暗な空の下を今抜け出して来たばかりのタンク・ローリーが、水しぶきを揚げている。濡れたアルミ色の巨大なタンクは、陽を受けて輝いていた。そして、休んでいる僕の横を、あの激しい豪雨の中に突っ込んで行こうとする二台の車。同じ空間にいても、両者の思いは正反対だ。
 前方は真っ暗で後方は快晴。路面や路肩の背の低い草は濡れて光っている。僕は、停車したまま周囲の状況をただ眺めていた。急ぐことなど、とうにあきらめている。ふいに、前方の上空に大きな虹がかった。何とも奇妙で美しい光景だった。これで、少しは報われたような気になった。

 スクラントンから五〇マイルほど手前のビンガムトンでハイウエイを降りる。
 すぐに給油に寄ったガス・スタンドでは、若い女性が一人で留守番をしていた。
「この町にコイン・ランドリーはありますか?」
 ランドリーの発音は難しいなと思いながら、僕は彼女に尋ねた。
「そのすぐ先にあるわよ。」
 表情の動きが豊かな欧米人は、微妙な心の動きもすぐに顔に出る。彼女は、少しだけだが、一瞬複雑な顔をしてからそう答えた。
「ありがとう。」
 支払いを済ませ、僕は彼女が教えてくれた方向へ走った。しかし、そこにあったのは、コイン・ランドリーではなく、コイン洗車場だった。
「まいったな。コイン・ランドリーって言葉はないのかな。」
 この国では洗車場もまた巨大だ。トレーラーが何台も入れそうなだだっ広い洗車場の入口で、僕はしばらく悩んだ。海外では通用しない和製英語に区別のつかないものがある。コイン・ランドリーもその一つなのかも知れない。しかし、またスタンドに戻る気にはなれず、僕は、自分でコイン・ランドリーを探すことにした。
 走りだして間もなく、パトロール・カーを停めて立ち話をしている二人の警官の姿が目に入った。僕は、彼らに聞いてみることにした。ナンバー・プレートのことは、頭になかった。
「この辺りにコインランドリーはありますか?」
 二人の警官は顔を見合わせてしばらく言葉を交わした。
「この道を行って、その先の信号を左に曲がるんだ。しばらく走れば右手にあるよ。」
「わかった。ありがとう。」
 言われた通りに走って行くと、今度は確かにあった。ちゃんと通じるではないか。後はモーテルだが、ここに来る途中にそれらしい建物があったので、僕はそこまで戻った。


 できることなら雨は降らない方がいいが、雨はオートバイやヘルメットにくっ付いた虫をきれいに洗い流してくれる。その点に限っては感謝している。モーテルの部屋に入ってタオルを絞りオートバイを磨いてやる。それからシャワーを浴びて、ジャケットもジーンズも全部袋に詰め込んでからオートバイに跨った。当然下着姿ではなく、短パンをはいている。
 髪も洗ったし、面倒なのでヘルメットは被らなかった。先ほど警官の姿を見たばかりだが、これもノーヘル・チョッパー野郎御一行の影響だろう。
 ヘルメットを被っているときは気づかなかったが、ガシャガシャと異音が聞こえてきた。スプロケットだとすぐに分かった。ここまで、高速で四五〇〇マイル近くを走って来た。スプロケットの山が削れていてもおかしくない。交換しなければならないが、車の修理工場はよく見かけるものの、ハーレー以外のオートバイ・ショップはこれまで一軒も見なかった。その辺りは、進出めざましい自動車業界とは事情が違うようだ。
 とりあえず明日はニューヨークだ。ニューヨークなら日本車を扱うショップくらい見つけられるだろう。そう思い、今は応急処置で後輪を少し後ろにずらしてチェーンを張っておくことにする。


 さて、コイン・ランドリーに着いて、先ほどから洗濯をしているのだが、表に出てボケっとしていると、通りかかった若い四人組の男が立ち止まってじっとこちらを見ている。
非常に嫌な感じだった。あからさまに引っ込むのも却って良くないと思い、僕は、そのままで辺りを眺め回していた。しばらくして、彼らは立ち去った。
 今日、これで洗濯も済ませられる。オートバイもきれいにしてやった。明日のニューヨーク入りに備えての準備は万端だ。後は飯を食うのみである。一日の締めくくりと言うより、一日の一番の楽しみが、ビールを呷りながらバカでかいステーキを食うことだ。
 嗚呼、待ちどおしい。




走行距離 四七七km/七四〇〇km
八月二十日  二〇:〇〇


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