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8.20 BINGHAMTON ≫≫

BUFFALO


 普通、旅をしている時と言うものは、遅寝、早起きが普通だろう。しかし、僕は普段の生活と変わらずどうにも朝が起きられない。今朝も、七時にタイマーをセットしていたのだが、三〇分おきに遅らせては、結局一〇時頃まで布団にくるまっていた。


 外は、昨日とは打って変わっての快晴だった。I−80・90を東へ。
 エリー湖の湖畔に沿って走るハイウエイだが、残念ながら今回もここから湖は見えない。中西部のまばらだった交通量とは打って変わり、車の数はかなり増えていた。たまにかっ飛ばしてみたり、のんびりと景色を眺めながら走ったりすることも出来なくなっている。僕は、タンクの上で頬杖をつき、周りの車の流れにまかせてただ走っているだけだった。
 クリーブランドを過ぎてハイウエイはI−90になり、しばらくしてペンシルバニア州に入る。現在の州都はハリスバーグだが、さらに東にあるフィラデルフィアは、かつては一〇年間だけだがこの国の首都だったことがある。一七七六年七月四日。フィラデルフィアで「自由の鐘」が鳴らされ、独立宣言もこの町でなされた。アメリカ合衆国の原点と言える、由緒と歴史のある都市だ。


 一六八一年、イギリス国王チャールズ二世からこの地域を与えられたウィリアム・ペンがフィラデルフィアを建設。彼は、寛容と平等を主義とするクエーカー教徒であった。そのため、宗教の自由を保障し、すべての宗派の人々を受け入れた。その結果、少数派の様々な宗派の人々がこの地域に住むようになっていた。特にドイツからの移民が多く、その中に、現在では「ペンシルバニア・ダッチ」と呼ばれているが「アーミッシュ」がいる。
 アーミッシュ派とは、ドイツ語圏の宗派メノー派からスイス人ヨセフ・アマンにより別れた宗派である。一七二〇年頃から今のランカスターの辺りに移住してきたが、現在では広い範囲に広がっている。
 信者は、質素な生活をして、外部との接触を避けなければならない。男はつばの広い黒い帽子に黒いコート、そして、長いあごひげ。女は黒いドレスにストッキング、そして黒い靴。ボタンは、装飾品とされているので使うことは許されず、代わりにフックを使う。電気、電話、自動車などの近代的な機械や道具を利用することも禁止されており、代わりに、馬車に乗りランプに頼る生活をしている。実際には飛行機などを利用することもあるらしい。農業で生計を立てているが、機械や化学肥料なども一切使わない。子供は小学校までしか通わさず、社会から完全に断絶した生活を送っている。現代のアメリカにあって、一八世紀、一九世紀の暮らしぶりだ。近代技術に頼らない彼らの自然農法は、一時多くの人に蔑視されてきたが、それでも今では専門家の注目を集めている。
 最近は、日本でも農作物の有機栽培がいろいろと話題になっている。都会を離れて、田舎で畑を耕しての自給自足の生活に憧れる若者も増えた。宗教という強い影響力がなければ、おそらく彼らの集落は現在まで残ることはなかっただろう。より便利なものを次から次へと発明してそれを手に入れようとする欲望と、自然に囲まれたのんびりとした暮らしを求める欲望。果たして何が人間の矛盾を生むのだろう。
 L・Aという大都会にしびれたのが二週間前。それから幾つかの国立公園などを訪れて、太古からの営みを今も続けている大自然に心が震えた。そして、また近代的な都市にやってきて、僕の心の中は今や矛盾だらけ。AV機器や車、便利な暮らしにも興味があるが、しかし、チャンスがあればカナダにでも行って大自然の中で暮らしたい、とも思う。結論など出はしない。まだ結論が出せる年齢ではないのかも知れない。


 ペンシルバニア州がエリー湖に面しているのは、わずかに五〇マイルほどだ。ハイウエイは、すぐにニューヨーク州へ入った。
 ここでも州都はニューヨーク市ではなく、ニューヨーク市から北に一〇〇マイルほど行ったオルバニーだ。その名前を聞いたことのない人も多いだろう。
 ここからニューヨーク市までは、まだかなりの距離がある。日数にしても、到着の予定は二日後だ。しかし、「NewYork」と書かれたプレートを付けた車が周囲に増えてくると、さすがに気持ちははやる。
 ニューヨーク州に入って一時間としないうちに、バッファローに着いた。この町を訪れたか、ここで宿泊したことのある人はきっと多いだろう。町自体はそう小さくはないが、特に見るべきものはない。ただ、ここはナイアガラの滝に一番近い町なのだ。


 そこそこでも大きな町に入ると、モーテルを探すのに苦労する。だから、それは極力避けたい。常々そう思っているが、そうも行かないときもある。そして、案の定、今日のモーテル探しも、たっぷり一時間走り回ったあげくにようやく見つかった。全米にチェーン店をもつモーテルで、少々料金が高いのだが、見つかって何よりと言った思いだ。
 チェック・インを済ませると、やけに愛想の良い年輩の男性がホールに立っていた。黒の上下に蝶ネクタイ。どうやらここの従業員のようだ。
「Hi。」
 エレベーターに向かってホールを横切る僕に、彼はニコニコしながら声をかけてきた。
「Hi。」
 僕も笑顔で答え、エレベーターに乗って四階の部屋へ向かう。
 部屋は、高い料金を取るだけあって、さすがに整った清潔な部屋だった。一人きりで、一泊しかしない僕には勿体ない。荷物を下ろして、僕はそのままシャワー室に向かった。


 エレベーターで一階に降りると、さきほどの愛想の良いおじさんはまだそこにいた。
「この近くにおいしいステーキの食べられるお店はありますか?」
 そう尋ねてみると、おじさんは相変わらずニコニコしながらフロントからメモ用紙を持ってきた。そして、メモ用紙に簡単な地図を記しながら、おすすめの店の場所と名前、そして、そこに行くまでの道順などを丁寧に教えてくれた。終始陽気な笑顔で案内してくれたおじさんに、僕は二ドル紙幣を渡して、メモ用紙を手に街に出た。
 一〇分ほど歩いた所にその店はあった。洒落た店だった。店内は少し薄暗い感じで、結構込んでいるようだ。入口に突っ立っている僕を見て、すぐに、ウエイトレスが近づいてきた。
 彼女は、美人だった。
 長くもなく短くもない黒のタイトなスカートに白いブラウス。ネクタイはしてなく、一番上と二番目のボタンを外してあるが、手入れの行き届いた襟は決してよれることなくエッジが効いている。それは、この店の制服のようだったが、そのシンプルな服装が、実に決まっていた。整った顔立ちに、屈託のない豊かな表情。細いブロンドを肩までの長さですっきりと揃え、タイトなスカートでも、必要以上に女性らしさをアピールしない軽く切れのいい身のこなし。黒と白の色のメリハリにも十分に勝っている。
「Hi。」
「Hi。」
「一人?」
「ええ。」
 普段なら、見つめる事の出来る機会など決して訪れないだろう彼女の表情。僕は、周囲には一切視線をくれず、この時とばかりにその顔を凝視した。穴でも空けんと言わんばかりに。
 腰を振ることなど決してしない彼女は、テンポのよい歩き方で前を歩き、奥のテーブルへと僕を案内してくれた。座っていると、すぐに先程とは違うウエイトレスがやって来た。
「Hi。」
「Hi。」
 この店は、と思った。今度の女性も、また大変に美しかったのだ。都会的な雰囲気で、活発で機転が利きそうで、ハリウッドの女優などに例えようとすると、なかなか思いつかないタイプだ。僕は、彼女を凝視したままハイネケン・ビールとステーキを注文しておいて店内を眺めた。
 同じ服装の女性従業員が、何人か、店内を行ったり来たりしていた。その女性達がみな美しいことに気付き、僕は大変に気を良くし、また、ホテルの紳士に心から感謝した。
「この街は、ひょっとしてこんなにきれいな人ばかりなのだろうか。ぜひとも、また来るべきだ。」


 ビールを煽りステーキを食う。込み合う店内は騒々しかった。そして、初めて聞く曲ばかりだったが、低音の効いた音楽が、燻る煙草の煙の中に響いている。
 空いた皿を下げてもらい、僕はバーボンを注文した。
「煙草はありますか?」
 このテーブルに案内される時、自動販売機の横を通ってきたのだが、僕はそう尋ねた。
「その先に、自動販売機があるわ。」
 美しい女性は、そう答えた。
「ありがとう。」
 店内は、通路に仕切られたような形で、二つの空間に分かれている。どちらの空間にも違いはない。その通路に、煙草の自動販売機は置いてある。僕は、まずラークを探し、ないことを確認してからマルボロを探した。マルボロはあったが、値段を見ると三ドル二五セントになっている。一箱がだ。日本と違い、ここでは国の定めた煙草の値段というものがないので、これも仕様がない。高いところでは高いが、その代わり、煙草がスーパーの安売りになることもあるのだ。
 コインを入れて、マルボロの所に付いているレバーを引いた。昔はどこででも見ることの出来た、ピンボール・ゲームにあるようなレバーだ。
 席に戻って、買ったばかりの一本一六セントのマルボロを煙にする。バーボンを空にして、二杯目を頼んでおいてから、僕は三二セント目に火を付けた。値段じゃない。払うだけの価値があるかどうかだ。今日の煙草と酒は、格別に旨い。




走行距離 五八〇km/六九二三km
八月一九日 二〇時四〇分


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