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9.5 KINGMAN ≫≫

CHINLE


 ピピピピピピ・・・。朝五時三〇分ちょうど。枕元に備え付けてあるデジタルの時計が鳴った。何年か前に使っていたアナログ時計は、セットした時間のきっちり一〇分前に鳴り出していた。時間ぴったりに鳴るのがデジタルの良いところだ。
 アメリカに来て一カ月と二日。こんなに早起きをしたことはこれまでなかったが、スケジュールに追われながらもいよいよゴールが間近に迫り、今日は一日でどれだけ走れるかチャレンジしてみるつもりだった。
 ここにきて一カ月間の疲労を感じ始めてきた体を何とか起こすが、窓には朝の陽射しがなかった。布団から這い出てドアを開ける。
「寒っ。」
 外は季節違いの気温で、空を見上げても朝日の兆しすらない。夏時間で一時間時計を進めているので実際には今は四時半ということになる。さすがに日の出には早かったか。仕様がないので、六時半にタイマーをセットし直して再びベッドにもぐり込んだ。
 ピピピピ・・・。六時三〇分。ベッドから這い出るまでもなく外の暗さを確認して、七時にタイマーをセット。ピピピピ・・・。七時。ようやく青白い朝の明かりが窓に透かして見えた。九月に入ったとは言え、少々遅い日の出ではないのか。こんなものか?


 朝もやが立ち込める中、昨日の記憶を頼りにI−40の入り口のある方向へバイクを走らせた。まだひっそりと寝静まっている田舎の道路を一人で走っていると、センチな僕は物思いにふけりがちになる。やがてI−40の入り口が現れ、WESTの標識に従ってハイウエイに乗った。
「夜明けまえ〜のぉ♪紫のハイウェ〜イ・・・」
 古い歌を口ずさんでいた。濃く青い色をしているがまだ薄明るい空、目覚める前の森、夜露に冷たく湿ったハイウェイ、それら全てにヴェールを掛ける朝もや。GPZのエンジン音が絶えず聞こえるだけだった。
 たまに夜を徹して走ってきた巨大なトレーラーに出会う。
「頑張れぇ。」
 トレーラーを追い越す度、その巨体に声をかけた。早朝のがらがらのハイウェイ。たまに同じ道路を走る車に出会うと、何故か奇妙な親近感を抱くものなのだ。
 夏の早朝。僕は気持ちのよいツーリングを期待していた、が。
「寒ーっ。」
 まんまと裏切られた。昨日は涼しくて気持ちがいいなどと思っていたが今朝はまるで違った。冷たい空気がジャケットの中に入り込んで徐々に体温を奪ってゆく。風を受けないようにカウルの中に身を屈ませていたが、三〇分と走らないうちに全身が震え出した。
 しかし、一日でどれだけ走れるかチャレンジをするためにせっかく早起きをしたのだ。早々とどこかへ逃げ込む訳にはいかない。せめて二時間、もしくは二〇〇kmは走らなければ。
 革製とは言ってもグローブは夏用のものをはめている。左手はポケットに突っ込めるが、アクセルを握る右手は吹きさらしなので固まってしまっていた。あまり洗濯ができないために靴下を履いていない。足はリーボック・シューズの中でかじかんでいる。右手とつま先の痛みに刺激されて、脳から大量にアドレナリンが放出される。おかげで寒さに鈍くなるが、思考も鈍る。
 トレーラーを追い越す時、始めは顔を向けて見送っていた。やがて目玉しか動かなくなり、ついには見ることさえおっくうになった。親近感を抱く心も凍えて固まったようだった。
 そうして耐えに耐えた二時間。またもやテキサス州に入った。さすがアメリカの最大州はどこまでも広いようだ。そろそろガソリンの残りも少なくなっている。EXITのサインと共に、スタンド、レストラン、モーテルの案内が出ているのを目にして、僕はハイウェイを脱出した。寒さに負けた訳ではなく燃料補給のためのピット・インだ。そんないささか意固地な思いがあった。
 側道から一般道に出て交差点に差しかかる。オートバイを傾けてその交差点を曲がる時、寒さに体が固まって、頭も同じ角度に一直線になって傾いていた。そのままの姿勢で交差点を抜ける。
 ガス・スタンドに入って震えながら燃料補給を済ませ、僕は隣のレストランへ駆け込んだ。店にはトラッカーが五人それぞれにテーブルを占めて黙々と食事を取っていた。店内は何とも暖かかったが、テーブルに着いてしばらくは、僕は捨て犬のように縮こまって震えていた。
 制服を着たウエイトレスに、コーヒーと簡単な朝食を頼んだ。すぐに運ばれて来たコーヒーに飛びつく。砂糖の入った瓶を持つ手が震えていた。その後、スクランブル・エッグ、火を通してふにゃけたハム、フレンチ・トースト、そして三杯目になるコーヒーを平らげる頃、ようやく体が温まってきた。しかし、居心地が良いからといつまでも休んでいる訳にはいかない。今日は日中間一人耐久レースなのだ。


 店を出て再び合流したハイウェイは、幾分交通量が増えていた。もうハイウェイの独り占めはできない。時計の針はそろそろ一〇時を指すが、しばらくはまだ寒かった。それでも先程取った暖が体から消え去らないうちに、涼しいと感じられる程度にまで気温は上がってきた。
 アマリロを過ぎてニュー・メキシコ州へ入る。ここでセントラル・タイムからマウンテン・タイムに変わり時計の針を一時間遅らせる。タイム・スリップをしたような気分だ。セントラル・タイムのタイム・ゾーンは南部ほど東西に広がっているので、久しぶりの時差だった。今日はこの一時間が貴重なのだ。
 アルバカーキが近づいてくると、I−40は長い下り坂に入った。西に向かってどんどん下る。カーブを描いてずんずん下る。とにかく下る。それに伴って、気温がぐんぐん上がる。やがて、坂の途中で暖かいを過ぎて暑くなっていた。短時間でのこの気温差は体に悪い。
 ニュー・メキシコ州の最大都市アルバカーキに入る頃から、天ぺんが平らになった台地が幾つか見えるようになった。これこそアメリカ大西部の景観だ。台地はどれもかなり大きいようなのだが、それ以上に視界がだだっ広いので、大きいのやら小さいのやら何とも把握しづらかった。バック・ミラーを見ると、悠々と横たわる山脈が写っていた。さっきまで走っていた所だ。こうして見ると、いかに高所を走っていたかがよく分かる。
 涼しかった緑豊かな高原は、一転して乾燥した暑さの赤茶けた荒野に変わった。大陸の思いがけない変化は、小さな島国からの訪問者には驚きの連続だ。
 この辺りからは、更に西のグランド・キャニオン辺りにかけて大小幾つかのインディアン保留地が広がっている。ここから少し北にある州都サンタフェやアルバカーキでも、建築物など町のあちこちに先住民族の文化を見ることができる。そういう町並みを見てみたい。しかし、今は西だけを見て荒野に伸びる一本のハイウェイをただ走った。


 二〇〇kmごとに休憩を取ってきたが、これで何度休憩をしただろうか。朝からの走行距離もまもなく一〇〇〇kmになる。気温も周りの景色も何もかもが朝とは違い過ぎて同じ日のこととは思えない。まったくおかしな感覚だった。
 気温の高い状態が続くと、GPZへの負担も気になってくる。しかし、排気音が少々図太くなってはいるものの、今のところ問題はなさそうだった。本当に頼もしい限りだ。
 ただ、体調を崩す事もなく今日まで走って来たが、朝の寒さのせいか自分の方が風邪気味のようだった。風邪気味なのかそれとも疲労なのか判断つきかねる状態だが。


 ニュー・メキシコ州からアリゾナ州へ入る。
「さて、ここでどうしよう。」
 スタンド脇の陽陰に座り込んで地図を眺めていた。どこまで走れるか分からなかったので、出発する時にルートを決めずに走り出した。
 時刻は午後五時半を過ぎ、強い陽射しから十分隠れることができるくらいにまで建物の影は伸びている。もうしばらくは走れるが、休憩はこれが最後だろう。
 明日、モニュメント・ヴァレーとグランド・キャニオンを見て回るのに効率のよい町に今日は泊まる必要がある。このままフラッグスタッフまでハイウェイを走るのが距離としては妥当だろう。グランド・キャニオンに行くにも便利だ。しかし、そうするとモニュメント・ヴァレーまで一〇〇マイル以上戻ってくることになる。それではあまりに無駄が多すぎる。モニュメント・ヴァレーから回る方が効率はいいのだが、そのためにはここでI−40を降りてU・S191を北へ進むことになる。
「北ねぇ・・・。」
 北の方角を見やると、U・S191の先はブッシュの中へ消えていた。この時間からこんな所へ入って果たして大丈夫なものか。地図にこそ載っているが、こうしてみる限り片側一車線のカーブの多い山道だ。モーテルやガス・スタンドがありそうな雰囲気ではないし、暗くなれば何が出るやも知れない。


 しばらく悩んだ挙げくに、GPZに跨って一か八かでブッシュの中へと入り込んだ。一〇〇マイル以上の距離を行ったり来たりする気にはなれない。もっともここで安全策を取る慎重な性格なら、今頃は日本で仕事をしている。
 果たして、U・S191の周囲には数十kmにわたって何にもなかった。山道に入ってかなりペースも落ちる。走れど走れど周囲の景色が変わることはなく、道路を横断する樹木の影だけが長くなる。行き来する車の姿もほとんどなかった。べそをかきたい思いだ。大失敗かと思いながらもさらに奥へ進む。引き返すのはいやなのだ。
 STATE264との交差点を過ぎてしばらく走ったところで、ようやく森の中の小さなガス・スタンドを見つけた。
「他にもここに来る人がいる。」
 そこにいる人の姿がたまらなく嬉しかった。
 あまりガソリンは減っていなかったが、念のためガソリンを満タンにしておいて、店内で地図を物色した。今使っている地図はアメリカ全土のものだ。何せここは山の中なので、もう少し詳細なものが欲しい。アリゾナの州地図があればよかったのだが、それは無さそうだったので合衆国の西半分の地図を買う。
 一枚の地図を折り畳んだタイプだが、二・九五ドルは安い。だいたいが日本の地図が高すぎるのだ。解説書が付いていたり、厚紙のケースに入っていたりと余計なものが多い。ビニールのカバーなんてそれこそ無駄だ。今年の春頃、アメリカのロード・マップを探しに書店に行ったことがある。もちろん日本での話だが、ビニールで封をされた外国製の地図には一〇〇〇円近い値札が貼られていた。しかし、四ドルほどの値段がその地図に印刷されているのを見て、さすがに僕は白けた。そりゃあ輸入の手間やら何やらもあるだろうが、だからと言ってそんなに上がるものか。


「Hi.」
 オートバイに跨がって地図とにらめっこをしていると、ふいに声をかけられた。若い男性が横に立ってニコニコしている。
「Hi.」
「どこから来たんだ?」
「ん−、L・Aから。」
「そう。」
 素っ気ない返事だ。確かにここからL・Aまでは車で一日の距離しかない。ぐるっと合衆国を回って今ここに来ているなどとは彼も思わないだろう。
「どこかこの近くにモーテルはないかな。」
 彼にそう尋ねてみた。
 彼は僕の広げた地図をのぞき込んで、まず今僕らがいる場所を探して目をキョロキョロさせた。それから指でなぞって一点を指し、クリクリした目を再びこちらに向けた。
「ここにあるよ。」
 彼が指していた場所は、ここからそう遠くはなかった。町の名前は、chinleと書かれている。このままU・S191を走って行けばよい。これで一安心だ。
「ありがとう。」
「バイ。」
 本当はカイエンタまで行ければ良かったのだが、カイエンタまではまだ一〇〇マイル以上の距離がある。この道路では時間が掛かり過ぎる。
「また明日も早起きをすればいいか。」


 それから一時間と走らないうちにchinleに着いた。乾燥した空気と赤茶色の土に囲まれた集落といった感じだが落ち着きのある町だ。
 この町に着いてまず僕を迎えてくれたのは、目の前を横切る二頭の黒い大きな牛だった。牛が向かった先は、コイン・ランドリーを備え付けたモーテルだった。そのモーテルの向かいには、都合良くレストランもある。
 牛の客引きにまんまと引っ掛かり、僕はそのモーテルにチェック・インすることとなった。フロントにいた女性は、土地柄なのかあっけらかんとして明るい性格の持ち主だった。
 部屋に入り、まずGPZの洗車をしなければならない。相変わらずライトなどフロント周りには小さな虫がたくさん付いている。それを終えると次に自分がシャワーを浴びる。その次は、たまった洗濯物を洗わなければならない。
 疲労こんぱいで早くステーキとビールにありつきたいが、その前にやらなければならないことが多かった。


 今は久しぶりに洗濯をしながら、鳴き止まぬ腹の虫に苦笑しつつこの日記をつけている。ふと、さっき目の前を横切った二頭の牛の姿が脳裏に浮かんだ。彼らが、僕の今夜の夕食のテーブルに上らなければよいのだが。ひょっとすると、ステーキになるために彼らは潔く道路を渡ったのかもしれない。
 疲労のせいだろうが、それが妙にツボにはまった。
「ヒッヒッヒッ。」
 誰もいないコイン・ランドリーで、僕は一人薄ら笑いを浮かべていた。




走行距離 一二五四km/一五三一〇km
九月四日  二一:一〇


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