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9.4 CHINLE ≫≫

GREARY


 快晴。東海岸から遠ざかるに従い、次第に天候も安定している。


 午前九時過ぎにヒューストン辺りに着いた。NASAの宇宙センターで月の石でも見ようかなとも考えていたが、この時間では開館まで待つ羽目になるかも知れない。先を急ぐ必要があったし、天気も良いので通過する。L・Aに向かうにはこのままI−10を走れば最短ルートだが、ヒューストンのダウン・タウンを回る環状線に乗ってから、I−45に移って北に進路を変える。そうしてテキサス州南部を避けた。
 アメリカの地理をよく調べていなかった僕は、この辺りから気温が高くなるだろうと思っていた。しかし、実際には予想に反してかなり涼しい気候だった。陽射しは相変わらず強いものの湿度も気温も低い。ハイウエイから望む風景も、緩やかな丘が連なる緑の多い美しい自然の姿である。このような風景を眺めながら走ることが出来るのは、北西部のワイオミング州やアイダホ州辺り以来だった。
 丘に建つ家には、どこも広い庭がある。庭と言っても辺り一面が庭のようなものなのだが、一応白いペンキを塗った木の柵などで囲ってある。軒先にブランコでも吊ってあれば、映画などで見る通りの家になる。どこかで述べたかも知れないが、あのブランコというものは、ある意味実に良く出来た居住空間だと僕は思う。

 話は変わるが、日本の住宅で最近めっきり見なくなったものの一つに縁側がある。都会生まれの若い世代には、その存在すら知らない人も多いかも知れない。それは言い過ぎとしても、実際に見たことのない人は多い事だろう。縁側とは、座敷などの外側に、庭を望むようにして板を敷いた空間である。望むものが隣の家と言うような状況では造っても仕様がない気はするが、最近は田舎でも縁側は古い家でしか見ることが出来なくなってきた。
 縁側は、古くは古墳時代の高床式住居には見られていた。その後、住宅形式の変化によって形や持つ意味は変わってきたが、現代にも引き継がれている。その縁側が最近になって減ってきた背景には、敷地の広さや建物の洋式化など幾つかの理由が挙げられる。しかし単に、縁に腰を降ろしてのんびり時間を過ごすだけの心のゆとりを、我々が失いつつあるだけなのかも知れない。フローリングのリビングにでも、縁側風のものを造ろうと思えばそれは可能である。今流行のガーデニング関連を扱う店にも、簡易の縁のようなものは売られている。例え猫の額ほどの庭でも、そこに腰を掛け、風鈴の音を聞きながらスイカ片手に夕涼みを楽しむことだって出来るはずなのである。暖房器具だけに頼って季節をやり過ごすより、積極的に季節を演出して風雅に過ごす時間の方がよほど素晴らしいものであるに違いない。
 僕が幼少を過ごした家には濡縁があった。その家の造りで今も記憶に残っているのは、その濡縁を中心とした座敷と庭だけである。縁と座敷に両親や祖父母がおり、庭で兄弟と遊んでいた記憶である。家の中でもなく外でもない。縁側を中心とした空間の心地よいゆとりを、僕は今でも忘れることはない。古来からの良い伝統が、社会科の教科書の中でしか見られなくなるのは寂しいことである。

 密集して建つ高層ビルが次第に大きく見えてくる。テキサス州ではヒューストンに次ぐ第二の都市であるダラスに近づいた。I−45はここで終点となる。アメリカ南西部の商業や流通の中心地であるダラスからは、周辺の都市に向けて何本ものハイウエイが伸びている。隣のフォートワースとも、一つの都市のように環状線でつながり大都市圏を形成している。そのため次々とジャンクションが現れて、ハイウエイは忙しくなる。東部の喧噪から解放され久しぶりに豊かな自然を満喫していた僕は、のんびりとした風景を求めて環状線を途中で降りてU・S75へルートを変えた。U・S75から82へ。インターステートから外れたハイウエイは、片田舎の小さな村を通り過ぎる。
 ガソリンの残りが乏しくなり、とうに昼を過ぎて空腹も覚えていたので、僕はガス・スタンドの標識を見てハイウエイから降りた。降りてしばらくはまるで何もないところだった。砂ぼこりの舞う、両側を藪に囲まれた田舎道を走る。しばらくして一軒のガス・スタンドが見えてきた。民家のような木造二階建の建物の前に色の褪せたポンプが二つ並んでいるだけで、うっかりすると見落としてしまいそうなスタンドである。当然ポンプ・ファーストだったので、僕はGPZを着けてからすぐにガソリン・タンクのキャップを開け、ポンプに付いているノズルを持ち上げた。蝉の声しか聞こえない所で、コツコツとノズルが給油口に当たる音がよく響いた。
 給油を済ませてから店に入り、僕は簡単な食料と飲み物を買った。そして、オートバイを木陰に移動してから、石垣に腰を掛けて軽い昼食を取ることにした。静かな所である。湿度が低く、木陰の下で受ける風が心地良かった。
 食事を終えて煙草を吹かしていると、建物からスタンドの主人が出てきた。引き締まった表情に、白いTシャツに羽織っただけのダンガリー・シャツとジーンズがよく似合っている。僕の目の前には、リアカーを後ろにつないだピック・アップが一台止まっていた。これも塗装が剥げ落ちて、あちこちに錆の浮いた年代物である。やがて、彼は芝刈機のような機械をどこからか引っ張ってきて、それをリアカーに積もうとしていた。コーラを喉に流し込んでゲップに耐えていた僕に、彼は「来いよ」というように手招きした。積むのを手伝えと言っているのである。僕は石垣から降りてリアカーに近づき、両手でリアカーの後ろを低く下げて彼が機械を乗せるのを待った。
「違う。これを押すんだよ。」
 僕は彼に指示されて、芝刈機を挟んで彼と向かい合った。それから彼がするのと同じようにして、片手でリアカーの後ろを下げ、もう片方の手で芝刈機をそこへ押し上げるようにして乗せた。積み終えて手を払っている僕に、彼は軽く片手を挙げてからピック・アップに乗り込みどこかへ走り去って行った。先程からこのスタンドには彼以外に人の気配はなかったが、誰がスタンドに残っているのだろう。それにしても、アメリカ人というのは気軽に人にものを頼む人種である。
 どこだったか、マウント・ラッシュ・モアの近くだったと思うが、かなり古ぼけたモーテルにチェック・インしたことがあった。大抵のモーテルではすぐ分かる場所にフロントがあるが、いくら探してもそこにはフロントらしき場所がなかった。しばらく辺りを歩き回り、二棟並んだ一棟のうちの部屋の窓に、料金表らしい紙切れが貼ってあるのを僕は見つけた。どうやらその部屋がフロントのようだったが、気が付かないのも無理はなかった。中を覗くと、老婆がリクライニング・チェアにもたれてテレビを見ていた。僕は開かれた窓から彼女に声をかけて部屋はあるかと尋ねた。すると彼女は、僕の質問には答えずに床に置かれた古いテレビを指さして言った。
「これをあっちの部屋に運んでおくれ。」
 もちろん僕は嫌な顔一つせず二一インチほどの重いテレビを運んだし、目的である部屋を取ることも出来た。しかし、今の彼にしてもあの時の老婆にしても、まるで息子か孫にでも手伝いをさせるかのように人にものを頼む。決して文句を言いたい訳ではない。
 アメリカでは、店でキャッシャーに行けば客も店員もまずあいさつをする。モーテルの駐車場で隣り合わせた男性に声をかけられたこともある。ただすれ違っただけで笑顔を向けてくることだってある。そんなアメリカ人の行為を、あれは友好的な証ではなくいろいろと裏があるのだと、日本人が書いた記事を何度か目にしたことがある。多民族国家故に周囲に愛想良くする必要があるのだと彼らは言う。このスタンドの主や老婆の行為にも、彼らは「多民族国家ゆえに」などと理屈を付けるかも知れない。何らかの根拠を元にしての彼らの意見は、おそらく間違ってはいないのだろう。ヨーロッパの様々な国の人々が隣り合わせていた移民時代には、確かにそれもあっただろうと僕も考える。それは、今でも続いているかも知れない。しかし僕は、事情通面してそういう穿った批判的な発言に終始する輩こそ嫌いである。敢えて裏を読もうとする必要は果たしてあるのだろうか。気軽に他人と付き合う事が出来て気分の悪かろうはずはない。


 I−35に乗り換えて、レッド・リバーを渡るとオクラホマ州に入る。
 州内最大都市であるオクラホマ・シティが州都になっているが、オクラホマとは先住民の言葉で「赤い人」を指す。この地域には白人が訪れる以前から平原インディアンが狩猟などをして生活していたが、チェロキー族などの東部を追われてやって来た部族が多い。現在では、合衆国州内で最も多い二五万人のネイティブ・アメリカンが暮らしている。
 このオクラホマのように、先住民の言葉や先住民に関わる言葉を用いた地名がアメリカには非常に多い。サウス・ダコタやノース・ダコタのダコタは、スー族の言葉で「友人」を意味し、アーカンソーは「下流の人」を表している。その他にも、アイオワ、アラバマ、アリゾナ、コネティカット、アイダホ、イリノイ、カンザス、ケンタッキー、マサチューセッツ、ミシガンなど数え上げればきりがないが、我々日本人にも聞き馴染みの深いこれらの地名も、すべて先住民の言葉に由来している。かつて先住民を忌み嫌い、手段を選ばず彼らの土地を搾取し続けてきたこの国では理解に苦しむ現象である。インディアンを追い払っておいて、インディアナ(インディアンの土地)州とは、何をか言わんやである。思うに、文明や武力で勝る白人は先住民から北米大陸を奪いはしたものの、違い過ぎる価値観から理解すら出来なかった先住民の精神までもは奪えず、逆に自分たちにある醜さを嫌と言うほど思い知らされるようになったのではないだろうか。それが無意識のうちに先住民に対する畏敬の念となって、無神経とも思えるこのような形で現れたのかも知れない。
 少々歴史を振り返ることになるが、それは新大陸へやって来た最初の頃の白人が既に味わっていたはずである。振り返らせてもらおう。


 一六二〇年の九月。新大陸を目指してメイフラワー号がイギリスを出港した。船に乗っていたのは、イギリス教会に反抗する清教徒四一人を中心とした一〇二人。宗教活動の新天地を求めての清教徒たちの旅立ちであった。二カ月あまりの航海を経て船は現在のマサチューセッツ州プリマスに到着した。季節はまもなく厳しい冬を迎えようとしていた。プリマスは北海道の函館とほぼ同じ緯度にあり、また東海岸の冬は大変に厳しい。上陸後、彼らはこの地に植民地の建設を試みたが、もともと野外生活や土地の耕作についての大した経験や知識を持っていなかった。そんな彼らを、たちまちに壊血病と飢えが襲い、半数が冬を越すことすら出来なかった。
 彼らが全滅を免れたのは、周辺に住む先住民の助けがあったからである。先住民は、トウモロコシやジャガ芋の種の植え方、それに魚の採り方などを白人たちに丁寧に教えた。先住民の目には、大きな船でやって来た白人たちは素晴らしい能力こそ持っているものの、反面非常に脆い人間に写った。彼らをどう扱うも意のままであったが、先住民は彼らを温かく迎えて救いの手を差し伸べた。それがアメリカ大陸のどこであろうと、初めて白人に接した先住民たちは、例外なく同様の対応を示している。先住民たちは、そもそも土地を個人が所有するという概念を持っていない。それが後の悲劇へとつながるわけだが、彼らにとって土地はすべての人のものであり、ただそこで猟をしたり農耕を営んでいるだけのことであった。白人たちがそこで土地を耕して生活をしたいと言うのなら、彼らはただ隣人として迎えて接するだけだった。やがてその年の収穫期が訪れ、白人たちは豊かな実りの秋を迎えた。王であるマサソイト以下大勢の先住民が、それぞれ七面鳥などを手に祝いに駆けつけ、連日に渡って祝宴が繰り広げられた。それが、現在では国の行事ともなった「感謝祭」の記念すべき第一回目である。
 現在の合衆国北東部地域を指してニューイングランドと呼ぶが、ニューイングランドに初めて植民地を開いた彼らは、後にピルグリム・ファーザーズと呼ばれた。ピルグリムとは巡礼者を意味している。 
 その後次々と新大陸へやって来た白人は、先住民に土地の個人所有の概念を押し付けようとした。イギリス人にとっては、土地の取得こそが目的だったのである。しかし、これに理解を示さない先住民に対して、白人は土地を奪って彼らを森へと追いやり、自分たちの神への冒涜に対しては死刑とする法律まで制定した。マサソイトの息子でその頃王となっていたフィリップは、このような白人のやり方に耐え兼ねてプリマスの植民地に攻撃を仕掛けた。しかし、植民地を壊滅寸前まで追いやったものの、結果としてフィリップ側は敗れフィリップ自身は処刑された。彼の首は、その後の二五年間にもわたって晒されることになった。初めての感謝祭から五〇年余りしか経っていない一六七六年の事である。
 僕は行っていないが、プリマスにはメイフラワー号の実物大モデルがあるらしい。またピルグリム・ホールでは、一六二〇年の上陸当時から現在に至るまでの歴史を紹介してくれる。そして、プリマス・プランテーションに行けば、当時の生活をそのまま再現した様子を実際に人間が演出しているそうだ。先住民たちは、一体どのように紹介されているのだろう。しかし、プリマスにはマサソイトの銅像までが立てられていると言うことに対しては、アメリカ人の明けっ広げな矛盾もここまで極まったかという思いである。


 オクラホマ州に入っておよそ一時間。オクラホマ・シティに着いて、僕はI−40に乗り換えて西に向かった。時刻は午後七時を過ぎ今日一日の走行距離も五〇〇マイルを越えていた。それでも、久しぶりに豊かな自然と快適な気候に恵まれ、疲れは心地よいものだった。少しでも西へ向かって距離を稼いでおいて、小さな町でハイウエイを降りた。




走行距離 八九七km/一四〇五六km
九月三日 二一:〇〇


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