KEYWEST
どうにも朝が苦手な僕は、毎朝の起床が九時から一〇時と遅い。そのため、モーテルを出るのは、いつも一一時頃になってしまう。せっかくアメリカまで来たにもかかわらず、随分もったいないことをしているものだ。そういう思いは常にあるのだが、それでも起きられない僕はまったくだらしがない。
今朝は珍しくすっきりと目が覚めた。時計を見るとまだ八時だ。それでも早起きと言えるほどの時間ではないが、できれば毎朝こうあってほしいものだ。
窓を開けると、陽射しを吸い込んで純白に輝く無数の積乱雲がまず目に入った。大地との境界線まで見渡せる空は、見上げることをしなくても視界の上半分を埋め尽くしている。遠くなるに従って小さくなってゆく積乱雲は、遠近法によってその空がいかに広いかと言うことをよく表している。強い陽射しが大地を照らしつけているが、夜の間に雨でも降ったのか、地面はどこもまだ濡れていた。
ギラギラとした陽射しと、それを反射させてキラキラと光る濡れた地面。ほどよくエアコンの効いた室内に、たっぷりと湿気を含んだ熱気が塊になって押し寄せて来た。
「むわっ。」
まずは顔から、続いて全身がその塊に包まれた。
僕は、支度を整えて部屋に荷物を残して駐車場に向かった。部屋は一階だったので、目の前にオートバイは停めてある。キーを差し込んで、チョークを引いてエンジンをかける。
“キュッキュッ、ブウオー”
風もなく、じりじりと時間が止まったような夏の空気にGPZの排気音が響いた。その音は、暑い一日の始まりを告げる蝉の声のように、僕をやけくそな気持ちにさせる。高い気温のおかげで、エンジンはすぐに暖まった。今はTシャツ姿なのだが、蒸し暑い外気に触れて、早くも額にはじわりと汗が滲んできた。僕は、ヘルメットを被ってGPZを走らせた。
雑誌や雑貨、食料品などを売っている小さな店が、アメリカにはあちらこちらにある。日本のコンビニエンス・ストアーのような店だ。造りや雰囲気もよく似ている。
僕の目当てのそんな店は、一〇分も走ると見つけることができた。店に入って、簡単な朝食と、煙草、ミネラル・ウオーターを買い求める。ミネラル・ウオーターは飲用ではなく、バッテリー液の補充用だ。今やカフェやレストランのメニューにも載っているミネラル・ウォーターだが、僕は、巷で流行りのミネラル・ウオーターを飲用として買ったことがない。水を飲むために金を払おうという気が起きないだけだ。
モーテルに戻って、買ってきたミネラル・ウォーターをバッテリーに補充してやる。それからエアコンの効いた部屋に戻り、買ってきた朝食を頬張りながらぼーっとテレビを眺めた。真剣に見ても内容が理解できない。
煙草を一本二本と灰にすると、デジタルの時計の数字は既に一〇時に近かった。ちょっと早起きをしたところで、出掛けるのはやはりこの時間だ。
とりあえず南西の方角に向かってバイクを走らせていると、すぐにI−95の入り口が見えてきた。「South」の標識に従って進み、ハイウェイへとつながるスロープから思い切り加速して本線に合流した。町並みを眺めながらのんびりと通りを走るのもいいが、僕はハイウェイに投げ出されるようなこの瞬間が一番好きだ。
広い空の見渡せる限り一面にボコボコと入道雲が浮かんでいたが、向かっている方向にある雲の底は、どれもどんより黒ずんでいた。いつにわか雨が降り始めても不思議でない状況だった。それでも、夏らしく眩しい陽射しは十分辺りに降り注いでいる。執拗に全身にまとわりつく湿気も、まったくもって夏らしく申し分がなかった。ジャケットの中の温度が次第に上がり出し、全身にじわじわと汗が滲むのを感じながら、それでも僕は真夏のフロリダの陽気に浮かれて走った。
様々なビーチの名前が書かれた標識を幾つか過ぎ、午後一時前にはマイアミに近づいていた。
砂浜や小屋のような建物ばかりだった風景に、ビルの姿が多く目に付くようになってきた。そのビルの間を抜けるインター・チェンジが現れると、風景はいっそう立体的になり、都市らしい様相を呈してきた。少し前からだが、周囲を走る車の種類にも変化は起こっていた。メルセデス、フェラーリ、ロールス、BMW。東京のどこかの街のように、やたらと高級車が増えていた。やはり、この辺りには金持ちが多いようだ。
白い幌を後ろに畳んでキャビンをオープンにした真っ赤なシボレーに追いついた。運転席には、白い半袖のポロシャツを着て、彫りの深い整った顔立ちにサングラスをかけた男性が座っていた。ドアの上に軽く乗せた左腕はよく日焼けしていて、とても細い金髪は流れるように風になびいている。それを見ていると、なぜだか僕は無性に悔しくなってきた。
少し離れて高層ビルが幾つか並んで見える所が、おそらくダウン・タウンだろう。やがてI−95は終わり、一般道へと降りた。
通りの両側には、シュロ科の植物が街路樹として植えられ、歩道を歩く人々は明るく軽快な服装をしている。交通量も多く、海に近い南国の都市らしい雰囲気だった。僕は、キョロキョロしながら車の流れの中を走った。あちこちに寄り道するだけの時間的な余裕がないので、せめて街の風景くらいはしっかりと眼に焼き付けておこうと思っていた。ダウン・タウンの高層ビルも眺めながら、その方角へは向かわずに、僕はU・S1をただ南へと向かった。
しばらく走っているとバイク・ショップがあったので、僕は減速して店の前でオートバイを止めた。ワシントンD・Cで買ったチェーン・オイルは昨日までに使い果たしている。走行距離か速度か気温か、それともその全てが原因なのか、二日も走ればチェーンのオイルはカラカラになってしまう。チェーンの立てるノイズは、スプロケットの摩耗が原因に違いないと今でも僕は信じていたが、乾ききったチェーンでは良くない。棚に幾つか並んでいるオイルの中から適当に選んで買った。
市街地を抜け切り、フロリダ・キーズもいよいよ目の前だった。
しかし、現実に目にしているのは、フロリダ・キーズを結ぶ美しい海上ハイウェイではなく、カリブから北上して向かってくる真っ黒な雲だった。かなりの厚みのあるその雲は、このまま来れば大地まで飲み込んでしまいそうに見えた。それは視界の一面を黒く覆い、これまで見たどの雲よりも恐ろしげに見えた。今いる場所の頭上は、積乱雲こそ浮かんでいるものの大かたは晴れている。一〇km先か二〇km先かまで続くその明るさと、その先の黒さとの極端な対比は、まったく異様な風景だった。
しかし、この時にも迷いやためらいはなかった。
「何が何でもキー・ウエストへ行くんだ。」
この様子では海上ハイウェイの美しさを満喫することはできないだろうが、この雲だってどこまで続いているかは分からない。キー・ウエストまでは一六〇kmの距離があるのだ。恐らくそこまでは続かないだろう。それに雨の中での走行にも慣れた。
僕は、路肩が広くふくらんでいるスペースにGPZを滑り込ませた。
しばらく真っ黒な雲を見ていたが、レイン・ウエアを袋から出して広げた。すると、南の方角から走ってくるオートバイの姿が目に入った。二人乗りで、ヘルメットは被っていないようだ。そのオートバイが近づいて来て、乗っている男が僕を認めると、彼らは二人揃って大声で叫んだ。
「Back!Back!」
他にも何か叫んでいるようだったが、聞き取れなかった。しかし、戻れと言うように大きく手を振って叫ぶ彼らの姿に、僕はただならぬものを感じた。イエロー・ストーン国立公園を後にしてロッキー山脈を越える時にも、落雷とヒョウで大変な思いをした。特に、運に任せるほか仕様のない落雷は怖い。あの時の恐怖が脳裏に浮かんだ。
「やめようかな。」
地元の連中があの騒ぎようでは、僕が弱気になってしまうのも仕方がない。引き返そうかと考え始めたちょうどその時、僕の横を一台のバイクが通り過ぎた。ホンダGL1500、だと思った。乗っているのは二人。その背格好から見て年配だろうと思うが、夫婦らしい男女だった。二人は、お揃いの真っ赤なレイン・ウエアーを頭からすっぽりかぶり、ばかでかいオートバイのシートにちょこんと収まって、ゆっくりしたスピードで走り去った。あの雲の下へと。
「じゃ、僕も。」
猛烈に落ちる雨の壁が直前に迫ったことは、はっきりと目に見えた。直前にポンピングでブレーキを掛けアクセルを戻したが、真っ暗なその中に入って行くと、すさまじい雨に叩かれてさらにスピードを落とした。
夜のような暗さと、視界を遮る雨。前を走る車がいなかったので、途端に目標を失って瞬間体が緊張した。メーターを見る余裕もなかったが、アクセルを開けることが出来ずにどんどんスピードが落ちていく。しかし、あまり速度を落とし過ぎると、今度は後続車に追突される恐れがある。ライトは常に点灯しているが、激しい雨に遮られて後続のドライバーにGPZのテール・ランプなどほとんど見えないだろう。確認出来るまで近づいた時には、ブレーキを踏むより先に追突してしまう。僕はゆっくり左に寄って、一番外の白線を目印にして少しずつスピードを上げた。車のようにハザードを点けることができないので、ウインカーを点けたまま走った。
「あのGLはどこまで行ったんだろう。」
前を走っているはずの二人は、この状況の中をどうしているだろうか。会話はもちろん、よそ見もできない状況で、今はじっと耐えて走っているのだろうか。ひょっとすると、僕と同じように白線だけを頼りに走っているのかも知れない。僕は、見えない二人に励まされるような思いで、白線を見失わないことだけに集中して走り続けた。稲妻が走らないだけでも良しとしなければならない。
時折、左の対向車線を音もなく対向車が過ぎた。ライトの明かりだけがぼやっと現れては後方へ消える。
予想に反して、雨は思っていたよりずっと広い範囲で降っていた。少しも衰えることのない豪雨の中を、もう一時間以上走っている。フロリダ半島の先からキー・ウエストまでは一六〇kmの長い道程だが、一体どの辺りまで来たのだろう。今日中にキー・ウエストを折り返して、マイアミまで戻らなければならない。しかし、スピードが上げられず次第に焦燥感が募る。ここで引き返して、今まで抜けて来た雲をまた追いかける気にもなれない。
フロリダ半島を離れて三時間後だった。
時計の針は既に午後四時を過ぎている。途中から雨はパラつく程度になっていた。しかし、ドライバーが周囲の景色に気を取られているのか、豪雨が小雨に変わってからも海上ハイウェイの流れは速くならなかった。これからマイアミまで戻るにはあまりに疲れていたので、今日はこのままキー・ウエストで泊まることにした。
ヘミングウェイの家や、本土最南端のマーカーなど、キー・ウエストにはいろいろと見所はあるのだが、もともとそれらを見て回る予定はなかった。テレビ・コマーシャルでよく目にする、美しい海上ハイウェイを走ることさえ出来ればそれでよかったのだ。今、それらを見て回るだけの時間は出来たのだが、僕はただただ疲労を覚え、これ以上オートバイを走らせる気にはなれなかった。海岸沿いの道路に沿って立ち並ぶホテルやレストランにネオンが灯り始めたのを見ながら、今日はもう走るのをやめようと思った。
しばらく走って、通り沿いのモーテルにチェック・インした。
与えられた二階の部屋に入り、荷物を下ろして大きなため息をついた。あれほどの雨の中を長時間走るとさすがに精神的に参る。
部屋の反対側まで歩いて、閉じられていたカーテンを開いた。すぐ前を、今走って来たノース・ルーズベルトBlvdが通っている。その向こうには波ひとつない静かなメキシコ湾が広がっていた。かすかに潮の香りを含んだ外の空気が部屋に満ちてくると、幾分気分が安らいできた。僕は、振り返ってTシャツを脱ぎながらシャワー・ルームへ向かった。
汗を流してから、僕は食事のために外へ出た。
モーテルの周辺には他のモーテルやレストランが何軒か並んでいたので、オートバイは駐車場に置いたまま歩いた。この辺りは大変に静かだった。この島の中心はここよりもずっと西の方だ。
道路を挟んだ向こう側には、南の島らしい植物が間隔を置いて植えられ、さらに外側に二mほどの幅で歩道が引かれていた。僕は、道路を渡ってその歩道を歩いた。
道路と反対側には、すぐにメキシコ湾が広がっている。足元の少し低い所で、コンクリートの壁に当たって小さく海面が上下に揺らいでいた。まるで風がなく少し蒸したが、先ほどの雨のせいもあってか、夕方六時も近くになると気温は幾分低く感じた。
いつもステーキばかりを食べているが、今日はやはりシー・フード料理を食べなければならない。島に来ると決まって思うことだ。それはもう強迫観念にも近い。
夕方の雰囲気が漂い始めた中で、ライト・アップされた黄色い大きな看板がやたらと目立っていた。赤い文字で「SEAFOOD」と書かれた、その看板を出している店の前にある広い駐車場に僕は入った。駐車場を横切って、レストランのドアを開ける。
料理を運んでいたウェイトレスが、僕に気付いて笑顔をつくった。
「空いてる席に座って。」
彼女は、言葉で言う代わりに目でそう合図した。はっきりとした大きな目だと、そういう風に目で相手に語りかけることが出来る。僕は、笑うとなくなってしまうほどの目なので、いつもそれが羨ましく感じられる。
テーブルは幾つか空いてた。僕は、奥の壁際にある席を選んだ。
壁やテーブル、床に至るまで、この店のすべては木で造られていた。壁には木彫りのカジキやロブスター、それにヨットの絵などが掛けられ、南の島にあるレストランという雰囲気が意識して造られている。この島を訪れた人達の欲求もこれで満たされるのだろう。
「ビールはありますか?」
まず飲み物の注文を取りに来たウェイトレスに僕は聞いた。ないと言われたら店を出るつもりだった。
「もちろん。」
そう言った彼女の笑顔は、実に爽やかで印象的だった。横に薄く引かれた唇は、笑うと両端が端正に切れ上がり、表情には屈託がなかった。
すぐにビールは運ばれて来た。彼女は、一緒に持ってきたグラスにビールを注いだ。
「食事は決まった?」
僕は、ビールを注いでくれたことに礼を言ってから、ステーキとロブスターがセットになった料理を注文した。メニューの中でもこれは高い方だったが、随分と豪勢な料理だと思われるだろう。しかし、日本の相場で考えると値段はかなり安く一五〇〇円ほどだった。子供のロブスターが出て来るに決まっていると、これもそう思われる人が多いかも知れない。日本でなら間違いなく僕もそう思っただろう。居酒屋などで、車エビを注文して運ばれて来たものが芝エビではないのかと疑いたくなるようなことが僕の場合はしょっちゅうだからだ。しかし、今の僕にそんな疑問はなかった。何故なら、ここはそういう国なのだ。
果たして、ガラスの瓶に入ったビールを既に空にした僕の前には、立派な大人のロブスターと、単品並のサイズのステーキが乗せられた大皿がデンと置かれた。当然ポテトやパンも付いていて、「これでどう?」と言わんばかりのボリュームだった。
「もう一本?」
チャーミングな彼女の笑顔に、僕は喜んでビールを追加した。
さて、見た目には十分なボリュームの料理だが、問題はその味だ。僕は、ナイフとフォークを手にして、大きめにカットしたロブスターを口に放り込んだ。
「うまい。」
エビやカニの類いは、まずく料理することのほうが難しいようにも思えるが、このロブスターは大変にうまかった。ステーキの方も、僕にとっては十分にうまかった。
二本のビール、パンやポテトなどもきれいに平らげると、大食いを自認する僕もさすがに腹が張った。
僕は、皿を下げに来たウェイトレスに食後のバーボンを注文した。
「よく食べる中国人ね。」
そう彼女は思ったかも知れない。欧米人には中国人も日本人も同じように見えるらしく、僕もこれまでほぼ五〇パーセントの確立でチャイニーズに間違われている。
少し多めにチップを残して、上機嫌で僕はレストランを出た。太陽は水平線の下に沈んだばかりらしく、外は薄暗くなっていた。
手前の空を覆い尽くしている雲は、下からの太陽に光に照らされて夕陽色の波を打っている。遠くにある薄く斑になった雲の隙間には、白からオレンジへとグラデーションのかかった空がまだ明るく輝いていた。それぞれの色はそのままメキシコ湾に映されていて、道路に立つヤシの木がその間でシルエットになっていた。
時間と共に少しずつ変わって行くその風景を、僕はずっと見ていたかった。歩いていると大きな水たまりがあったのだが、そこにも夕陽に染まった空やヤシの木がそのままに映っていた。風がまったくないので湾にも水たまりにも小さな波すら立つことがなく、どちらが本物でも不思議ではないほどに完璧なコピーだった。
ここではいつでもこんなに美しい夕陽が見られるのだろうか。
僕は、空を染め海に映る夕陽が完全に見えなくなってから部屋に戻った。
走行距離 五八七km/一〇七六三km
八月三〇日 二〇時三〇分
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