KINGMAN
まだ柔らかだが、朝の白い光が窓に映えている。六時三〇分。ピロピロと鳴る目覚ましを止めてベッドから降りた。背伸びをしながら入り口へ歩きドアを開ける。
「寒っ。」
昨日に続いて今朝も、外はこの時期らしからぬ冷え込みようだった。昨日ほどではないにしろ今日の予定もハードなので、いつまでもモーテルでグズグズしているわけにはいかないのだが、昨日のような思いはご免だった。再び布団にもぐり込む。
結局、モーテルを出た時には八時を少し回っていた。極寒の朝の二時間と一二〇〇kmを超える走行で昨日はさすがに体調を崩しかけたが、一晩休んで今朝はすっかり回復しているようだった。もともと体力と健康には自信があったが、我ながら自分の身体が頼もしく感じる。
U・S191を北へ。西部劇などでよく目にする、地の果てのような裸の荒野が広がっている。その先に文明があると確信させてくれるのは黒いアスファルトだけだ。アスファルトを一歩出ればそこは野生の領域だ。乾いた赤茶い土には、まるで緑色をしたウニが群れているかのように背の低い植物がしがみついているだけだった。
六〇マイルほど走ると、T字路に差しかかりU・S160に突き当たる。ここで右折してU・S160を東に四〇マイルほど走ると、ニューメキシコ、コロラド、ユタ、アリゾナの四つの州が交わるポイントがある。アメリカで四つの州が交わるのはそこだけで、ナショナル・モニュメントに指定されている。名前は、“合衆国で唯一四つの州が共有する地点”。まったくそのままだ。しかも、どんな所かは知らないが、一ドルほどの料金も徴収されるらしい。
そう言えば、州の境界線の多くを河川や地形などを完全に無視して直線で引いているのもアメリカの特徴的なところだ。この土地に根付いた古くからの歴史が白人にないためかも知れないが、ある種これも国民性かも知れない。
U・S160を、ポイントのある方向とは反対に左折して西へ向かう。平原には、天辺が平らで岩肌を剥き出した台地が相変わらず幾つも鎮座していた。しかし、昨日からのものと形こそ似ているが、規模が大きくなっているようだ。四〇マイルほど走るとカイエンタに着く。厳しい環境の中にある町だ。赤茶けた地表を乾いた砂が風に舞っている。
木を組み合わせて布を掛けただけの粗末な露店が道端に佇んでいるのを、昨日からよく目にするようになった。店の台の上には、手作りの民芸品らしき物が幾つか並べられている。その奥には、深い皺を刻んだ痩せた老婆が力無げに腰を掛けていた。簡素な布をまとい、頬被りで砂埃をしのいでいる。顔立ちは西洋人とは明らかに違う。インディアン、先住民族、ネイティブ・アメリカン。彼らに対する呼び方は幾つかあるが、ネイティブ・アメリカンと呼ぶのが現在では最も正しいらしい。都合上、ここでは他にも使わせてもらうが。
アメリカには、彼らネイティブ・アメリカンが所有または使用することで政府から保留された先住民保留地という土地が全国に二八〇近くある。そのほとんどが僻地に設けられているが、この辺りは保留地の中で最も規模の大きいナヴァホ保留地になる。合衆国のネイティブ・アメリカン総人口の一〇パーセントに近いおよそ一六万人が、現在ここで生活している。
現在、アメリカの最貧層にいるのは、彼ら先住民達である。事故や病気による死亡率は非常に高く、アルコールにも深く蝕まれている。平均失業率は三〇%に近く、保留地によっては七〇%を超えるところすらある。特定の民族によるこの数値は異常だが、我々日本人にとっても、その問題に対する一般的な認知度はかなり低いのではないだろうか。
以前、先住民の問題はなぜ黒人問題のように世間に取り上げられないのかと、日本在住のアメリカ人に尋ねたことがある。黒人達のようなパワーが、現在の先住民にはすでに残されていないのだというのが彼の答えだった。
アメリカ政府も彼らに対する政策は検討しているが、大した成果は上がっていない。土地の所有や仕事、部族、個人、死に至るまで、あらゆる概念が、白人と先住民とでは相容れないからだ。一日八時間工場で働けと言っても、先住民達にはそれが出来ない。過去に、白人は彼らを奴隷にしようと試みたことがあったが、結局諦めている。誰かを所有したり誰かに所有されるという概念そのものが先住民にはないからだ。孤高として野生に生きるのが、永く続いてきた彼ら本来の姿なのだろう。
アメリカが近代国家だとは言っても、国土のほとんどは未だ自然のままで、先住民は先祖代々その自然の中で風の音を聞きながら暮らしてきた。シベリアやアフリカ、モンゴルなど世界各地の先住民が、現在も古くからの生活様式を守って暮らしているのと変わりはない。
しかし、ネイティブ・アメリカンは本来の文化を徐々に失いつつある。もともと地域や部族によって分かれて使われていたたくさんの言語にも、今に伝えられなくなったものが多い。そうして生活や文化を失いながらも、受け継がれてきた精神だけは簡単に消え去ることはない。それが、ある意味では彼らにとって悲劇なのかも知れない。彼らがネイティブなアメリカンとしてのアイデンティティーを持ち続ける限り、彼らが本来の姿を取り戻すには、やはり彼らが目指す完全な民族自決しか道はないかも知れないからだ。しかし、合衆国内に別の独立国家を置くことを、合衆国政府が認める事は恐らくないだろう。
野生の狼を捕らえてきて檻に入れておくと、狼は人間に餌をもらうよりも餓死を選ぶと言う。アメリカ先住民達は、その狼が選ぶ運命を辿りつつあるのではなかろうか。
現在、所有地内にある天然資源によってナヴァホは大きな利益を得ていると何かで読んだことがある。しかし、それがここに暮らす全ての人々の共有財産となっているわけではないらしいのだ。
昨日今日と露店の中に見てきた彼らの姿は、気高い精神を持ちながらも生き方を見失ってしまった者の深い哀しみに包まれているように見えた。
モニュメント・ヴァレーの入り口の町カイエンタからU・S163に乗って北へ。
一〇マイルほど走ると、幾つもの巨大な台地が見えてきた。最も高いものはおよそ三〇〇mと東京タワー並の高さがある。その巨大な台地以外に地平線を遮る物のない大平原を前にすると、距離感がかなり怪しくなってくるが、遠くにある台地が霞んでいる事を考えれば、かなり広範囲に点在しているようだ。人間を含めてここを徘徊する動物とアスファルトの道路を除けば、この光景は遥か昔からこのままの姿なのだろう。
途中、ガイド・ブックでは一ドルとなっていたのだが、二・五〇ドルの料金を徴収された。手渡されたパンフレットを見ると、一ドルは高齢者の料金だった。
モニュメント・ヴァレーは有名な観光地だが、国が管理運営する国定・国立の公園ではない。この土地を所有するナヴァホ・インディアンが管理運営している。そのためかどうかは分からないが、残念ながらここを訪れるための公共の交通機関はない。レンタカーを借りるか、フラッグスタッフやラス・ヴェガスから出ている観光バスを利用するしかない。ただ、バスの場合だと、より近いフラッグスタッフからでもたっぷり一一時間半揺られて来なければならない。ちなみに料金は八〇ドル近くかかり、運行日も毎日ではない。
以前、八時間ほどバスに揺られてスキーへ行ったことがあるが、窮屈な座席に終始悶絶して二度と利用するまいとその時誓った。それが一一時間半となると容易ではない。そのせいか、ここを訪れる日本人観光客は少ないらしい。
渡されたパンフレットの裏面には、台地の名前やビュー・ポイント、台地を縫って走るヴァレー・ドライブ、キャンプ場の詳細などが記された簡単な地図が書かれていた。表の説明書きは当然英文なのでそのほとんどが解読不可能なのだが、月毎の気温と日の出日没の時間のデータくらいは理解できるのでここで紹介しておこう。
おおよそだが、夏の今頃の日の出は六時半から七時の間、日没は二〇時前から二〇時半の間となっている。これをわざわざ記してあるのは、日の出・日没の時間帯の陽射しで見る景観が最も美しいからだろう。気温は、最も高い七月で最低一七℃、最高は三三℃。一日の中での寒暖の差はあるが、景観の割りには平凡な数値にも思える。それに、最高気温が三三℃とは言っても、湿度が低いので日本で感じるのとは違うだろう。冬にここを訪れる人はそう多くはないと思うが、ちなみに一二月、一月の最低気温はマイナス四℃まで下がる。最高でも六℃ほどなので冬場はかなり冷えるようだ。
台地を縫って走るヴァレー・ドライブは舗装されてなく、車のすぐ後に付いて走ると砂埃しか見えない。しかし、この人気の高い観光地は、今日が日曜ということも重なってか車だらけの人だらけだった。蟻の行列のように連なった車が、砂埃を上げながらのろのろと走っている。
赤土のヴァレー・ドライブへオートバイを乗り入れると、妙な違和感を覚えた。やはり鉄の馬より生身の馬がこの土地には似合う。馬車ならぬ鉄の車もここでは不自然だ。アスファルトがなくなっただけで、僕たちは随分と場違いな存在になってしまったようだった。
しかし、できるなら人気のないときに訪れてみたい。静寂に包まれた壮大で神聖な雰囲気の中で、一人ぼんやりするのもいいかも知れない。
何度かバイクを止めながらヴァレー・ドライブを走り、奥でループ状になった道路を回って、元来た道に出てから引き返す。そして、そのままモニュメント・ヴァレーを後にした。
U・S163を南に走ってカイエンタまで戻る。ここからはU・S160を西へ向かい、U・S89にぶつかった所で南へ。それからカメロンを過ぎ、STATE64に入って西へ走れば、いよいよグランド・キャニオンのサウス・リムに到着する。
しかし、STATE64に入るまでに一〇二マイル、そこからサウス・リムの中心ヴィレッジまではさらに五六マイルを走らなければならない。結構な距離だ。時間が気になるが、それでも西部の大パノラマを眺めながらのツーリングならおそらく気分はいいだろう。
アメリカにあるたくさんの国立・国定公園の中で、アメリカ人が最も訪れてみたいと思っているのがグランド・キャニオン国立公園らしい。日本語に直訳すると、“壮大な峡谷”という意味になる。数百万年という年月をかけ、コロラド川が少しずつ大地を浸食して形成してきた世界最大の谷だ。
この公園は、コロラド川が流れる谷底のインナー・キャニオンと、その南側のサウス・リム、そして北側のノース・リムの三つに分けられている。それぞれ、峡谷内部、南の縁、北の縁とそのままの意味だ。この“そのまま”というのがアメリカ人はどうも好きらしい。
ノース・リムとサウス・リムは、コロラド川の流れるインナー・キャニオンを挟んで向かい合っているわけだが、深いインナー・キャニオンに分断されて直線的には車で往来することができない。U・S160がU・S89にぶつかった地点で、北に回ればノース・リムへ、南に回ればサウス・リムへとそれぞれ続いている。しかし、そのルートを辿ってどちらか一方からもう一方へ回ろうとすると、二〇〇マイル以上もの行程になる。シャトル・バスがこの区間を走っているが、所要時間はおよそ五時間だ。やはり僕なら乗りたくない。
ノース・リムには、ポイント・インペリアルというこの辺りで最も標高が高く眺めのいいポイントがある。しかし、サウス・リムの方が交通の便がよく、宿泊施設やヴィジター・センターなど各種施設も充実しているので、ほとんどの観光客はこちらを訪れる。また、平均標高およそ二一〇〇mの南側に対して、北側は三〇〇mほど標高が高い。そのため、気温も二℃から四℃ほど北側が低く、冬季は積雪も多いために一一月から五月中旬までの期間は北側のルートは閉鎖されている。
インナー・キャニオンへは、南北どちらからでもトレイルを下って徒歩で行くことができる。このトレイルも、コロラド川まで南から五、六kmなのに対して、北からだと一一kmもの距離をトコトコ歩かなくてはならない。南と比べて人が少ない分、脚力に自信のある散歩好きな向きにはお薦めかも知れない。しかし、だからと言って決して南側のトレイルが楽だと言うわけではない。トレイルを下ってコロラド川にたどり着く地点は南北どちらからでも共通だが、標高は七三二メートルとグッと低くなっている。この長い坂道を下り、また上って戻るには、一日がかりでもかなり大変だろう。川近くのファントム・ランチには宿泊施設もあるが、混雑する夏期は予約が必要だ。
ただ、インナー・キャニオンの気温は、サウス・リムと比べても八℃から一二℃ほど高い。七、八月の平均気温は最低が二五℃。日本でなら熱帯夜というやつだが、これならまだ想像の付く範囲内だ。しかし、平均気温の最高が四〇℃というのは、データとしてしか知らないので何ともコメントできない。
さて、予想通り快適なツーリングでカメロンを通過し、ようやくSTATE64との交差点までやって来た。右折してSTATE64に入って行くと、道路は次第にカーブの続く登り坂となる。グランド・キャニオンに近づいて来た実感が涌いてくる。何と言っても、グランド・キャニオンはこの旅のメインの一つである。
STATE64には、リトル・コロラド川というコロラド川の支流が沿って流れているのを地図を見て知っていた。すると、その川に浸食されてできたらしい峡谷が木々の間に見え隠れするようになった。地図上で色分けされた国立公園のエリアまではまだ距離があったので、不意に現れたその光景を目にして少々興奮する。さほど規模の大きな峡谷ではないが、さしずめ本番前の序章と言ったところだろうか。
しばらく走っているとリトル・コロラド川も離れて行ったが、やがてデザート・ビューに到着した。グランド・キャニオンはここからの眺めが最高なんだと、ガイド・ブックに書いてあった。さすがに観光客の姿も多い。僕は、バイクを止めて道路の向こう側の峡谷を見渡せる崖っ縁へ歩いた。
「おおー!!」
いや、ちょっと違うな。正確に表すのなら、声にならない声で「ふぉぉぉぉ。」だ。
アスファルトから足を踏み出して崖の上に腰を掛ける。目の前の大パノラマを、口を開けたまま見渡した。それは素晴らしく壮大な眺めだった。写真や映像でなら何度も見てきたが、実物は、想像とはまるで迫力が違っていた。レンズを通して表現できる規模ではないようだ。
谷底を流れるコロラド川の深さはここからだと一〇〇〇mを超え、対岸の縁までは一五〇〇〇m近い距離がある。しかし、こうやって全てを見渡すと、実際にそれほどの距離があるとはとても思えない。と言うより、距離感がつかめない。スケールが違うとはまさにこのことだ。
深い谷は静寂に包まれていて、周囲の人々の歓声は谷底に吸い込まれたように頭から消えていった。そして、その静寂は頭の中でこだました。視界いっぱいに、幾重もの地層を剥き出した岩山が無数に連なっている。段々を刻んだ地層の最も古いものでは、二〇億年前にまでさかのぼる。よくぞこれほどのものが出来上がったと、ただ感嘆するだけだった。
ふと、我に返って周囲に視線を向けた。喧噪が再び戻ってくる。人々の表情を見ると、やはり規模の実感が涌かないのか、どの顔も呆然としていた。
デザート・ビューを出発して、グランド・キャニオン・ビレッジを目指す。途中、何カ所かにあるビュー・ポイントでオートバイを止めたが、気持ちは先を急いだ。朝から既に三〇〇マイル近くを走り、とっくに昼を過ぎたが、今日の目的地はまだかなり遠い。
到着したビレッジは、いきなり複雑になった道路のあちこちに駐車場があり、さまざまな施設が建ち並び、どこも人人人の人だらけだった。ここには、ヴィジター・センターをはじめ病院、ガス・スタンド、ロッヂ、キャンプ場、レストラン、マーケット、劇場に至るまで必要と思われるものは全て揃っている。劇場が必要なものかどうかは、人それぞれ価値観の問題だ。
取りあえず土産物だけを必要としている僕は、駐車場にオートバイを止めて人だかりのする建物へ向かった。歩いていると、樹の茂みの中に蒸気機関車が見えた。煙突からは蒸気が上がっている。周囲にいる人達の様子からも、どうやらこの機関車は飾り物ではなく実際に走っているようだ。こんな山の上に蒸気機関車だなんて、まったく奇妙なものを見た思いだった。さすがは国立だけのことはある。
日本から訪れる人のほとんどがツアー・バスかレンタカーを利用して来ると思うが、この公園を訪れるための公共交通手段には、この機関車とバス、それに飛行機がある。
まず、機関車は、ここから六〇マイルほど南にあるウィリアムズという町から出ている。この鉄道には一〇〇年近い歴史があるということだが、現在は、六月から九月のピーク時は一日に一往復、その他の期間は週末にだけしか運行していない。しかし、ウィリアムズはフラッグスタッフの西三〇マイルほどにある小さな町だが、そこに行くまでにも何かしらを乗り継いで行かなくてはならない。はっきり言えば不便だ。
バスの場合は、フラッグスタッフやラス・ヴェガスなど多くの町から出ている。ちなみにフラッグスタッフからの所要時間は二時間。料金は三〇ドルくらいである。
最後に、飛行機はラスヴェガスからひとっ飛びで約一時間。ヴィレッジの南一〇マイルほどにあるグランド・キャニオン・エアポートに降り立ち、空港からはバスかタクシーを利用する。リッチなあなたに。ただし、当然ながらジャンボ機ではない。
買い物を終えて、グランド・キャニオンとはこれでお別れにする。ヴィレッジを抜けて、U・S180を南下した。U・S180は、樹木の緑の中を長い下り坂で抜ける気持ちのいい道路だった。土産物店やレストランなどを両脇に見ながらスピードを上げて快調に走らせる。アメリカは、一般道でも結構なスピードで流れるのだ。途中からSTATE64に変わり、走り始めて一時間ほどでI−40に合流した。
インター・ステイトを走るのは随分と久しぶりのような気がした。実際には今日が初めてと言うだけなのだが。州道や国道にも良さはあるが、やはりインター・ステイトは開放感が違う。
しばらく走ると、レストラン有の標識があった。遅い昼食を取るために、ハイウェイからは登りになった側道へ車線を変えた。左手をハンドルから離して左足の腿に乗せ、坂の上に建っているレストランを見ながら速度を落として走った。すると、思わぬ所で道路が波を打っていて、よそ見をしていた僕は不意を突かれた。いきなりガクガクとハンドルを取られ、激しく上下に数回揺さぶられた。尻がシートから飛び上がり、アクセルを握る右手だけがバイクとつながっていた。
「おおおっ。」
まるでロデオだった。心臓が、どうすれば食道に入るのかは知らないが、口から飛び出しそうだった。何とか転倒だけは避けることができたが、しばらくは興奮が冷めなかった。それでも僕は努めて冷静を装い、誰も見ていないかこっそり辺りを窺った。
食事をしながら地図を開いた。
今日の目的地はラスヴェガスである。ここからだと二〇〇マイルほどの距離だが、その内の半分はインター・ステイトを降りて国道を走らなければならない。それでも、何とか暗くなるまでには着けるだろうと思っていた。ラスヴェガスにはどうしても昼間ではなく夜に入りたかった。ギャンブルをするつもりはないが、やはりネオンがきらめくラスヴェガスが見たい。急いで食事を済ませ、僕はすぐにレストランを出た。
ハイウェイに戻って西を目指す。煙を棚引かせて堂々とトレーラーが走っている。この姿を見るのも何だか懐かしいようだった。僕は、乾燥した大平原の中を快適に走り続けた。
後ろから一台の乗用車が迫って来ていた。GPZのスピード・メーターの針は一四〇kmを指している。ずいぶんとスピードを出す車だ。
バック・ミラーを見やると、助手席や後部座席の人達が窓を開けてこっちを見ていた。車がすぐそばまで近づくと、彼らは窓から顔を出して何かを叫んでいるようだった。横に並んだところで車がスピードを落としたので、僕は初めて直接にそちらを見た。
(中国人か?)
顔立ちを見てそう思った。彼らは窓から顔を出して、オートバイの後ろを指してしきりに何か叫んでいる。タンデム・シートには、バッグを縛り付けてその上にウエスト・ポーチを留めてある。おそらくそのポーチが落ちそうに見えたんだろう。左手で一度ポーチを押さえてから、大丈夫だというふうに握り拳から親指だけを立てた。彼らはつかの間併走したが、すぐに先へ行った。
その車の姿が小さくなってから、何の気なく後ろを振り返った。
「あらーっ?」
ポーチのチャックが全開だった。僕は急いでバイクを路肩に止めて中身を確かめた。
「ない!」
パスポートが、どこかへ飛んでしまった。国際免許証も、帰りの航空券まで、みんなどこかへ飛んで行った。時速一四〇kmで。愕然とした。格好良く親指を立てた僕の姿は、さぞ間抜けに見えたことだろう。今走って来た方向を振り返ると、ハイウェイは真っすぐに遥かまで伸びていた。
「レストランだ。」
ポーチにはいつも財布も入れてあるので、バッグはオートバイに残してもポーチは持ち歩いている。気持ちが急いていたので、おそらく食事をした後チャックを開けたままだったのだろう。不幸中の幸いだが、財布は残っていた。しかし、今は財布に入った現金や日本の免許証よりも、飛んで行ったもののほうがはるかに重要だった。あれがないと、日本に帰れない。
オートバイをその場に残して、今走って来た方向に向かって路肩を歩いた。食事をした場所までは一〇kmはある。五分で走って来たのに何て長い距離なんだ。泣きたくなってくる。
トボトボ歩いていると、前から大きなトレーラーが突進して来た。僕は路肩の出来る限り端に避けた。横をばかでかい車体が走り過ぎ、その直後に爆風が僕を襲ってきた。すると、その風に乗って、何やら黒い物がパタパタと転がるようにこちらに飛んで来ているではないか。僕は、ハッとしてその物に向かって駆け出した。
「パスポートだ。」
真っさらだったパスポートが、トレーラーに踏まれて折れ曲がっていた。しかし、この際そんなことは構わない。ナンバー・プレートの時と違って紛失が事実だとしても、パスポートを失くしては面倒なことになる。取りあえずこれで自分の素性は明らかにできる。もし国際免許証や航空券が見つからなくて、それらが再発行できるかどうかは分からないが、まずはパスポートがなければどうにもならないのだ。それにしても、ちょうど僕の元に飛んで来たのは果たして偶然だったのだろうか?何かに手を合わせたいような思いだった。
パスポートが見つかったことで少し落ち着きを取り戻し、一旦オートバイの所に戻った。これから国際免許証と航空券を探さなければならない。
オートバイに乗ってしばらく路肩を逆走したが、あまりに無謀な行為に思えたので、中央分離帯を横切って反対側の車線を走ることにした。日本の高速道路とは構造が違って、ハイウェイは高架ではなくガード・レールなどもない。分離帯は、少しくぼんだ未舗装部分が一〇mほどの幅で設けられているだけだ。多少草などは茂っているが、その気になればオートバイなら横断できる。反対車線に渡ってから、一番内側の路肩をゆっくり走った。向こう側の路肩、本線、分離帯。ヘルメットを脱いで食い入るように視線を周囲に散らした。通りかかったドライバーは、「何やってんだ」ともちろん英語で思っただろう。ハイウェイ・パトロールが来たらまたややこしいことになる。しかし、そんなことも言っていられなかった。
そうして結局レストランの中まで戻ったが、見つからないのでもう一度やり直しとなった。路肩をトロトロ走ったり、それらしいものを目にしてはオートバイを止めて歩いたりした。
結局、中央分離帯の草むらに引っかかっていた国際免許証を見つけたのが、探し始めて二時間近く経った頃だった。航空券は、バッグの底に入れてあったのを失くしたものと勘違いしていただけだった。公園や有料道路などで受け取った領収証などを全部残してあったが、それらは一枚も残さず失った。他にも記念にと取っておいた物で失くしたものがあるかも知れないが、今は分からない。重要な物が見つかっただけでも良しとしなければならない。
疲れ果てて時計を見ると、すでに午後六時近かった。辺りも薄暗くなりかけている。今日中のラスヴェガス入りは諦めるより仕方なかった。
行ける所まで行こうと思って、気を取り直して走り出した。ヘルメットの中でいろんなことを考えたが、複雑な心境だった。モニュメント・ヴァレーやグランド・キャニオンでの興奮。さっきまでの落胆と見つかったことでの安堵感。今日のラスヴェガス行きの断念。次第に落ちていく太陽を見ながら、何だかやけに長かった一日を思った。
しかし、新たな不安がまたしても僕を襲ってきた。
太陽が沈み周囲が真っ暗になってしばらく経つが、まるで明かりが見えない。見えるのは、たまに出会う車のヘッド・ライトと、GPZのライトが照らし出す範囲だけだ。広いアメリカのしかも西部の辺境のハイウェイでは水銀灯もない。何か飛び出して来やしないかと、再び路面と睨めっこをしながら走ることとなった。
かなりの距離をそうして走り続けて来た。山らしきものも越えて来た。ガソリンの量も最後の一目盛りを切りかけている。心細さはピークだった。
その時、森らしい黒い大きな影の向こうに街の明かりが見えた。
「街の明かりが〜♪とてもきれいね〜♪ヨコハマ〜・・・」
古いなとは思ったが、無意識に口をついて出たのだから仕様がない。同じ歌を、僕はヘルメットの中で大声で繰り返し歌った。本人にしか理解できない心境だ。
しかし、街の明かりはここからだと随分と低い場所にあるように見えた。一体、どんな所を走ってんだ?
今日は、三日間くらいに感じられる長い一日だった。
走行距離 八五四km/一六一六四km
九月五日 二二:一五
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