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LOS ANGELES


 U・S93を北へ。
 ミード湖国立レクリエーション・エリア一帯に入る。山肌を削って通された曲がりくねった山道が長く続く。GPZの重い車体に対して、絶え間なく続くコーナーは幾分急すぎる。タンデム・シートに縛った荷物の重さも加わってバランスが取りづらかった。それでも、車体を大きく傾けてコーナーを一つ一つ抜けて走る爽快感は、オートバイでしか味わえない醍醐味である。よく晴れて気温もかなり高い。タイヤは焼けたアスファルトにしっかりグリップしているが、調子に乗っていると、時折路肩から路上に広がった砂に肝を冷やされることがある。
 絶えずコーナーが続く道路で、大きく重い車体を左右に揺らして悪戦苦闘しているキャンピング・カーに追い付いた。ドライバーが、窓から腕を出して前後に振っている。先に行けと言っているようだ。アクセルを開けてそのキャンピング・カーの前に出てから、左手を上げて礼をした。


 二時間近く走った頃、コロラド川をせき止めて造ったフーバー・ダムが見えるようになった。一九三六年に完成したこのダムの高さは二一八メートル。ここで造られた電力は、ここから三〇マイルほど先にあるラスヴェガスの全電力を賄っている。上流のコロラド川は、ダムにせき止められて水位が上がり、本来は山腹だった所を飲み込んでミード湖という人工の湖になっている。車を止めて歩いている家族連れの姿が目立つが、キャンプや釣りをするためにここを訪れる人も多いらしい。
 コロラド川を境にネヴァダ州へ入る。やたらと直線的なアメリカの州境も、この辺りは川に沿って蛇行して引かれている。タイム・ゾーンもパシフィック・タイムに変わり、僕は時計の針を一時間遅らせた。しかし、今まで走っていたアリゾナ州は、アメリカ本土で唯一夏時間を採用していない州である。ネヴァダ州に入って夏時間で一時間針を進め、時差で一時間遅らせる。結局同じことだ。

 ネヴァダ州は州面積こそ広いものの、ほとんどが乾燥した不毛の地で人口も大変に希薄である。一八五九年に、州の西端にある現在の州都カーソン・シティの近くで大規模な銀鉱脈コムストック・ロードが発見された。この辺りの地域が、メキシコからアメリカに譲渡されて一一年後のことだった。メキシコとしてはさぞ悔しかった事だろう。その後一八六四年に州として合衆国に加盟するが、州経済は完全に鉱業に依存されていた。しかし、一八七〇年代の通貨改革によって鉱物産業に翳りが見え始め、一九二九年の大恐慌でそれは完全に崩壊した。埋蔵資源に頼る経済がいずれは迎える結末なのかも知れない。
 州は、鉱業に変わる産業を模索したが、何を興すにしても厳しい自然環境が常に立ちはだかった。とにかく、どちらを向いても砂漠なのである。そこで考えられたのが、現在でもいろいろと議論を呼んでいるが、ギャンブルと売春の合法化だった。一九三一年にこの法律が制定されたことによって、リノ、ラスヴェガスといった世界的に有名な二つのカジノ都市がネバダ州に誕生した。決して酔狂で造られた訳ではなかったのである。
 現在では、州人口の四分の一をラスヴェガスの住民が占めている。そして、カジノから得る莫大な利益が州経済を潤し、現在ネヴァダ州には所得税というものがない。
 しかし、砂漠の真ん中で二四時間三六五日ラスヴェガスが光り輝いていられるのも、すべてフーバー・ダムあってのことである。このダムなくして現在のラスヴェガスはおろか、今日のネヴァダ州の繁栄もなかったかも知れない。


 直線的で平坦な道路が伸びている。峠を越え乾いた山を下り切り、目の前にはモハヴェ砂漠が広がっていた。まもなくラスヴェガスである。広い道路の脇に、街の中心から離れて建てられたカジノがポツポツと見えてくるようになった。日本でも馴染みのあるコンビニエンス・ストアーの看板が見えてきたので、僕は立ち寄って携帯ラジオ用の乾電池と使い捨てカメラを買った。先ほど山道を下っている時、眼下に広がる砂漠をフィルムに収めようとカメラを取り出したのだが、電動のズームがうまく作動しなかった。頭にきてつい乱暴に扱ってしまった為、ズームが中途半端に飛び出したまま全機能が停止してしまった。この日それまでに撮影した数枚の写真は、その後の不手際もあって結局パアにしている。
 使い捨てではあるが新しいカメラを手に、僕はいよいよラスヴェガスへと乗り込んだ。この旅に残された最後のイベントである。
 しかし、予想はしていたが、残念ながら昼間のカジノ都市に華やかしさなどはまるでなかった。極彩色に塗りたくられた無秩序な街並は、夏の熱気と陽射しによって全てをさらけ出され、ただ猥雑で白々しいだけだった。歌舞伎町一丁目の大きなネオン看板とその奥に広がる歓楽街を、陽炎の先に見るようなものである。ギャンブルに興じるつもりはもともとなかったし、ギャンブル以外にもこの街にたくさんある娯楽施設にも僕は興味がなかった。連なるネオンの明かりが氾濫する中を、狂喜乱舞に沸き返る世界最大のエンターテイメント都市の姿。その姿をただ見たくて予定に入れただけであった。やはり、昨日の夜に来られなかったことが悔やまれる。
 僕は歩道にオートバイを寄せて止め、土産物を売っている店を何軒か回った。近くのホテルにでも部屋を取っていて、ネオンが灯る時間ともなれば明かりに群れる虫のようにカジノやショーに吸い寄せられて人格まで変えてしまうのかも知れないが、今は穏やかな観光気分の人達が溢れており、通りはそれなりに賑わっている。
 具体的な内容は忘れたが、この街にあるホテルの部屋はどこも居心地よくは造られていないという話を聞いたことがある。部屋でゆっくりくつろいでいられたのではカジノの売上が上がらない。さっさと外へ出て財布の中身を吐き出してこいというホテル・サイドの思惑があるらしい。スロットで大当たりを出し、一晩で億万長者となった人達のニュースをたまに耳にする。その裏では、ギャンブル地獄で破産して水面下で溺れている人も多いに違いない。まさに飛んで火に入る何とやら。光と音の洪水が、理性のたがを緩め欲望のかせをも外してしまうのだろう。その感覚を、感覚だけをちょっぴり味わってみたかったのだが。


 日本でも、スキー場などの観光地で、地名の入ったステッカーが売られているのをよく目にする。それに似ているのだが、もっと立体的で五・六センチの大きさのマグネットになったゴム製の土産物が、アメリカではどこへ行っても売られている。かさ張らないし値段も手頃なので、僕はこれまで行った先々でそれを買ってきた。自分自身や仲間への土産としても幾つかバッグに入っているし、手紙に同封して日本の友人に送ったりしてきた。ご多分に漏れず、ここで買った物もそれだけだった。


 非常に残念な思いはあったが、ラスヴェガスを後にする。
 これからは一路ゴールであるL・Aを目指す。ここからL・Aまでの距離はおよそ三〇〇マイル足らず。かかる時間はほぼ正確に読むことが出来、この旅の終わりを迎える実感もにわかに沸いてくる。
 街を抜けて砂漠に通されたハイウエイを南へ向けて加速する。往来する車は多い。気温はこれまでのどの場所よりも高く感じられる。実際、ここはアメリカで最も暑い場所なのである。走っていなければ痛いほどに気温は高い。森で生活する猿が、必要に迫られて肉食動物の徘徊する草原を決死の覚悟で走り抜けることがある。穏やかさ・潤い・優しさ・生命感などの類いとは無縁の死の世界を剥き出しにした周囲の風景は、僕にとってはまさしくその草原だ。その先にたどり着けずに往生すれば、間違いなく乾き切った自然に吸い込まれてしまうに違いない。L・Aとラスヴェガスとを結ぶ大動脈だけに引っ切りなしに車が行き交っているが、これが滅多に車の通らない閑散としたハイウエイだったとしたら、ここを走るにはよほどの覚悟が必要だろう。もし、この先で大きな事故でもあって流れが停滞して擦り抜けることも出来なくなったら。僕は干物になってしまう。そうなったら誰かの車に潜り込ませてもらおう。


 ラスヴェガスを出て一時間と経たないうちに、ついにカリフォルニア州へ帰って来た。「CALIFORNIA」と書かれた標識を感慨深い思いで迎える。
「カリフォールニア!」
 いくら叫んだってヘルメットの中だ。誰にも聞こえやしない。
 前後に連なるたくさんの車。この標識を見て胸に去来するものも恐らく人それぞれだろう。はるばる遠くから走って来た者。毎日の生活の身近なことと然して気にも止めない者。ラスヴェガスで大金すってそれどころでない者。夢を詰め込んでやって来て、ハンドル片手に一人で喜びをこらえている者も。僕の思いも僕だけのものだ。
 カリフォルニア州に入ってからも、どこまでも厳しい土地が続く。わずかな傾斜を数kmにわたって上り頂上に着けば、その先にもまた同じ死の世界が現れる。それでもL・Aは確実に近づいている。大体がアメリカの町は前触れなく突然現れる。人の住む場所がつながっている日本と違って、広い国土の中に町は点在している。そして、町と町との間にはしばらく何もない。特に、おおよそミシシッピ川を境に西の地域ではその間隔が途方もなく広かったりする。オートバイで走る上で一番注意しなければならないことである。だから、滅多にはハイウエイから離れられない。ハイウエイを走っていても心細くなることがあるほどなのだ。


 東海岸沿いの小都市から続くI−40が合流する。一昨日寒さに震えながら走り、昨日はパスポートなどを探してさまよったハイウエイである。しばらくしてI−215との分岐点に差しかかるが、I−15をキープする。タンクの上の地図は、およそ一カ月前にハリウッドのモーテルで買ったL・Aのロード・マップに差し替えてある。ちなみにこれは一・九五ドル。日本人にとっては破格の値段である。
 すでにL・Aには着いたようなものだが、ここからハイウエイは忙しくなる。複雑に交差してくるハイウエイを間違えずに走らなければならない。前を見て、標識を見て、地図を見て、運転席の女性も小まめにチェックしなければならない。神経を使う。しかし、実はここに来てどのルートを取るかをまだ決めていなかった。T・C社にオートバイを持って行かなくてはならないのだが、それには市の南側を回るルートを取ったほうが早そうだった。しかし、せっかく帰って来たのに郊外から回り込んで行くこともない。例え混雑したとしても、やはりダウン・タウンをかすめて帰るべきだ。それに、その方がルートも分かりやすい。
 サンディエゴ行きのI−15とはお別れして、L・Aのダウン・タウンを抜けてサンタ・モニカまで続くI−10へ乗り換える。このハイウエイにもフロリダからヒューストンまでお世話になった。随分前のような気もするが、つい三〜五日前のことだ。五・六分も走ると、「LOS ANJELES」の標識が見えた。
「帰った。」
 L・Aだ。視線を周囲に漂わせ、胸にあるのは安堵感、口をついて出たのはため息だった。
 I−210、I−605、I−710。高架のハイウエイに、他のハイウエイやたくさんの一般道が合流してくる。四車線の広い道路には走っている車もかなり多くなった。都会の雰囲気が色濃くなり始め、ほんの三・四時間前までの状況とはえらい違いである。まるで白っぽいベルトにでも乗せられているかのように、ダウン・タウン方向へ流れる車の群れの中に紛れ込んでいる。ノッペリと大きな郊外の視界の先の方には、インター・チェンジの曲線のアーチだけが見える。その光景はシンプルでありながらとても美しい。ラッシュ時の渋滞は避けられないらしいが、L・Aのハイウエイはやはり他のどの都市とも違う。それはこの街の大きさもよく表している。
 まだ高層ビルは見えないが、敷地の広い住宅と線香花火を逆さに立てたようなパーム・ツリーばかりがよく目立つ。このパーム・ツリーはまた、後になってこの街を思い出す時のイメージの大きな要素にもなっている。およそ一ヶ月前にL・Aの空港に降り立ち、ハイウエイを走るイエロー・キャブの車窓から初めてみた時の街の記憶が脳裏によみがえる。ついでにあの日のドライバーの、チップを受け取ったときの輝く瞳もよみがえる。ボラれたのだと今ではほぼ確信している。オートバイを走らせながら、僕は目の前のハイウエイと街並みを使い捨てカメラのフィルムに収めていった。


 やがて、丘陵を背景にしたダウン・タウンの高層ビル群が見えてきた。中心部が近づいてもハイウエイは以外に空いていた。ガスがかかって白っぽく霞んではいるが、最終日に僕を迎えてくれたL・Aの空は、何の染みもなく真っ青に晴れ渡る見事な快晴であった。

   

走行距離 六七〇km/一六八三四km
九月六日