MANNING
昨日引っ張り出した荷物が、床や机の上に散らかっていた。
髭を剃って顔を洗い、散らかった荷物を全部バッグに詰め込む。朝の日課だったこの作業を行うのも久しぶりである。フロントに降りると、昨日の髭面とは違う男がいた。
部屋の鍵を返し、フロントのカウンターの隅に「Mail」と書かれた細長い口が空いていたので、昨夜書いた手紙をその中に落としておいた。
外に出ると、まだ午前中だと言うのにかなり気温は高く、湿気もかなり多く含んでいた。空を仰ぐと空気はきれいに澄んでおり、青い空と地平との境界線は遠い。広い空には、綿菓子のような塊の白い雲が遥か遠くにまでいくつも浮かんでいる。この空の下を走っている時ほどに、自分は自由なんだと感じられたことは今までになかった。気温かそれとも気圧によるものなのかは僕には分からないが、綿菓子のような雲は、どれも一定の高度にあって底がまっ平になっている。眩しすぎる太陽は、まさしく夏のものだ。
「あちっ。」
オートバイに跨がると、たっぷりと陽射しを浴びたシートが尻に熱い。しばらくエンジンをアイドリングさせて、今日のルートをもう一度確認しておく。しかし、ルートと言っても、I−95をただ南へ向かうだけである。僕はヘルメットを被り、薄い皮のグローブを両手にはめて、逃げ水が漂っている白っぽい道路へと走り出した。
I−95を南へ。
ニューヨークを出た時点では二日間の貯金があったのだが、D・Cでのトラブルのために予定より三日遅れとなっている。予定では今日はフロリダ州のマイアミを出発するはずであった。距離にすると、およそ一〇〇〇マイル、一六〇〇kmの遅れになる。そのことで昨日から思案をしていたのだが、残念だがフロリダ観光はキャンセルするしか無さそうだった。マイアミのビーチは魅力的だが、オートバイで大きな荷物もあってではそう自由にも動けない。いくらでも時間がある旅でもない。それに、マイアミくらいならまたいつでも来る事が出来るだろう。マイアミに到着するまでにはまだ三日ほどかかるが、とにかく距離を稼ぐ必要があった。
スピードを上げてオートバイを走らせるが、それでも暑い。風は僕の身体に当たって流れて行く。しかし、風の中に含まれた湿気だけは、ジャケットの中に残っていてまとわりついてくるようだ。全身が汗っぽかった。西海岸や北部とは全く違う暑さである。
走り出して一時間半ほどでガソリンも少なくなり始め、給油のためにI−95を降りてスタンドに入った。ちょうど、ノース・カロライナ州に入ったところである。全米最大のたばこ会社レイノルズ社が、州のほぼ中心ウィンストン・セーラムにある。その地名は、そのまま煙草の銘柄にも使用されている。アメリカは、葉たばこの生産量で世界第二位を誇る。そのほとんどは、ノース・カロライナ州と隣のテネシー州が占めている。この辺りの地域はその昔、イギリス国王チャールズ一世の名前にちなんで、カロライナと名付けられた植民地として発足している。一七一二年に南北に別れ、それぞれノース・カロライナ、サウス・カロライナとなったが、テネシー州も一七八九年まではノース・カロライナの一部だった。
さらに時代を逆上ると、一八三八年の冬、最後の一行である一〇〇〇人が「涙の踏み分け路」へと出発するまでは、ネイティブ・アメリカンであるチェロキー族が、アパラチア山脈南部に広がる美しい土地で狩猟や農業、牧畜などを営んで暮らしていた。
入植者である白人たちは、インディアンの土地の収奪を正当化させるための大義名分を必要としていた。その大義名分とは、「土地の生産性を高められない野蛮人に土地を独占する権利がない。」「我々の大陸侵略は神の思し召しによるものだ。」と言うことだった。もちろん、それはあくまで大義名分である。
チェロキーの土地は、当時のジョージア州内にあった。一八〇二年州当局は、州内のインディアンを追い払うために連邦政府に契約を申し出た。内容は、州内にあるまだ入植者の少ない地域と引き換えに、インディアンの土地を取り上げてもらいたいというものだった。それを受けた政府は、酋長など個人に賄賂を贈って土地の譲渡書にサインをさせた。白人商人に対しては、インディアンにツケでどんどん品物を買わせるよう指示した。借金で首が回らなくなったところで土地譲渡の話を進めるためである。
その当時の大統領は、アメリカ建国の父トマス・ジェファソンであった。彼は、自らが起草した独立宣言の中でこう謳っている。
「すべての人は生まれながらにして平等であり、生命、自由、幸福の追求という犯し難い権利を与えられている。」
アメリカ合衆国とは、初めからこのような矛盾の上に建国されているのである。
しかし、チェロキー、クリーク、チョクトウ、チカソー、セミノールの開化五部族と呼ばれる部族たちは、すでに白人の言う野蛮人ではなくなっていた。中でもチェロキーの発展ぶりには目を見張るものがある。白人の侵略によってバッファローなどの狩猟の獲物が姿を消していったこともあり、彼らは土地を耕して畑や果樹園を造り、農業による生産を飛躍的に向上させていた。それに伴って商業活動も活発化し、製粉所や紡績所などの数も増えていった。白人が持ち込んだキリスト教の洗礼も受け、一八の学校を設立して教育も受けていた。一八二一年には、セコイアなる人物によって、チェロキー語のアルファベットが発明され、チェロキー語による新聞「チェロキー・フェニックス」も発刊された。チェロキー国家の元で、一八二五年からは最高裁判所や政府印刷所なども設立され、一八二八年には独自の民主的な憲法すら制定した。生活水準は大幅に向上して、白人より裕福な暮らしをする者も多かった。短期間にこれほどの改革を成し遂げた彼らのエネルギーの原動力は、先祖代々受け継いで来た自分たちの土地を奪おうとする、白人入植者たちへの抵抗心でもあった。
しかし、白人たちがそのようなインディアンの努力を認めるはずはなかった。白人たちは、逆に慌ててなりふりかまわず彼らを追い出しにかかった。先の大義名分は、あくまで自分たちの行為を正当化させるための建前でしかなかったのだから。
大統領が代わってもジョージア契約は履行され、一八二八年、アンドリュー・ジャクソンが第七代大統領に選出された。彼はインディアン・ファイターの異名をもつ男だった。これまでずっと、政府はインディアンに対してジョージアの土地を譲ってミシシッピの西へ移り住むよう促してきた。
「開拓されていない西方へ行けば白人との煩わしい接触をしなくて済むようになる。その新天地で誰にも邪魔をされない暮らしをまた始めればいいではないか。」
そう言って土地を搾取し続け、結局チェロキーの土地は当初の数分の一まで減っていた。
ジャクソン政権が誕生した翌年、チェロキー国内で金鉱が発見された。これは、インディアンにとっては大変に運が悪かった。一獲千金を夢見た入植者たちが、チェロキーの土地になだれ込んで来ては傍若無人に振る舞った。
一八三〇年、ジャクソン大統領はついに「インディアン強制移住法」を成立させた。その後の二年間に、周辺の部族たちは次々と西方移住の条約を強引に結ばされていったが、チェロキーはあくまでそれを拒んだ。しかし、政府の巧妙な懐柔と揺さぶりによって、部族内には分裂が生じていた。一八三五年、政府のお膳立てで、チェロキー内の少数の一派が政府との条約に調印してしまった。チェロキーは、この非合法的に結ばれた「ニュー・エチョタ条約」の無効を訴えて移住には応じない姿勢を見せた。一八三八年。そのチェロキーに対して政府は、ウィンフィールド・スコット将軍率いる七〇〇〇人の軍隊を送り込んだ。軍隊によって、チェロキーたちが柵で囲われた収容所に連行されようとするその横で、地元の白人は残された田畑や家に入り込んでは略奪や放火を繰り返した。
かくして、オクラホマに向かう一三〇〇kmにも及ぶチェロキーの西方移住が始まった。一三〇〇〇人を一〇〇〇人ずつに分けて行ったこの移住計画に、一集団当たり六六〇〇〇ドルの費用を政府が負担した。
しかし、政府がこれを民間の業者に委託したために悲劇が起きた。請け負った業者は、少しでも利益を得ようと出来る限りコストを下げようとした。そして、川を渡る船に老朽した船を使ったばかりか、そこに定員の倍のインディアンを詰め込んだのである。船は転覆し、乗っていたチェロキーたちは流れに飲まれた。また、食費を削るために、食料も充分には与えなかった。雨に打たれても、身を包む物は綿一枚切りである。季節が冬に近づいても、彼らには一枚の毛布しか与えられていなかった。凍てつく大地を素足で歩く彼らの足には血が滲んでいた。長い道すがら、チェロキーの中には衰弱や病気、栄養失調で死んでいく者が後を絶たなかった。業者にしてみれば、そうして頭数が減れば、その分利益が上がって行くのだ。彼らが通った後には、置き去りにされた屍が延々と連なった。
この旅に於けるチェロキーの死者数は、およそ四〇〇〇人とされている。そして、道なき道をたどったこの道程は「The Trail of Tears」(涙の踏み分け道)と名付けられた。しかし、こうしてたどり着いた西の土地に、貪欲な開拓者が押し寄せてくるのは時間の問題だった。
その当時、フランス政府に派遣されてアメリカを訪れていた政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、予言を含めて次のような言葉を残している。
「移住は、類を見ない巧妙さで、穏やかに合法的かつ博愛主義的に、一滴の血を流すこともなく遂行された。人間性の原理に対するこれほどの尊敬の念をもって人間を滅ぼすことは不可能である。インディアンがミシシッピ川西方の新しい土地で平穏無事に暮らせるのは、白人が外の土地を漁り尽くすまでの間に過ぎず、やがてインディアンは地球上で最も貪欲な国民の襲撃にさらされ、次々にここが最後と称する移住地へ追いやられた挙げ句、墓場だけが彼らに残された唯一の逃げ場になるだろう。」
(Willam・T・Hagun著 AmericanIndians 3rdより)
チェロキーはこの後、敵味方に分裂して南北戦争へと引きずり込まれる運命にある。
いくらハイウエイを走っても、身体にまとまりついてくる蒸し暑さは一向に払うことが出来ずにいた。
幸い僕の進む方角ではないが、西の空に真っ黒な雨雲が見える。豪雨に晒されているであろう辺りは、空と地面の境もなく真っ暗になっている。しかし、そのすぐお隣は、雲一つなくすっきりと晴れ上がっている。さらに、そのまた遥か先では、あちらでも雨が降っているようだ。猛烈な雨に見舞われる場所はいつも局地的で、ここからの視野の中での状況は実に様々である。一つの舞台の中での極端なその差は、まるで子供の頃に見たお芝居のようだった。舞台の右隅のスポット・ライト一つで照らされた狭く暗い空間では、三蔵法師がうなだれてブツブツ言いながら気をもんでいる。対して左の隅では、雲に乗った孫悟空が、明るい照明の中でニョイ棒片手にケラケラと笑っている。今は他人事と眺めながらこうして走っていられるが、いつ自分が土砂降りの雨に降られるか分からない。そう考えると、僕の置かれた状況はさながら人生ゲームのボード上の小さな駒であった。
幸い僕は雨に降られることもなく、I−95はサウス・カロライナ州へと入った。州のほぼ中心にあるコロンビアが州都で人口も一番多いが、大西洋岸にある第二の都市チャールストンの方がよく知られている。僕の世界地図を見ても、チャールストンの名前はあるがコロンビアの名前はない。おかしな話だが理由はある。
チャールストンは、まず歴史が非常に古い。一六八〇年頃、アシュリー川の河口にイギリス人植民地としてこの町は建設された。港が開かれ、米や毛皮などの貿易が盛んに行われるようになり、港町としてチャールストンは栄えた。
町の隆盛を反映して、通りには立派な邸宅が重々しげに並んだ。その後、各地の都市が次々と近代的に変わって行く中で、チャールストンには高層ビルが建つこともなく、当時の佇まいは現在にもそのままに残されている。教会も数多く建設され、アメリカで最も古い劇場もこの町にはある。裕福な貿易商や建築家、農場主たちが建てた立派な屋敷も残されており、幾つかは一般に解放されて入場料を得る観光スポットになっている。
古くからの立派で美しい建物が数多く並ぶ、川の流れる歴史ある港町。イギリス人植民地として造られた町並みには、古い時代のロンドンの厳かな雰囲気が今も漂っている。
一方で、サウス・カロライナ州の内陸部では、プランテーションという広大な農場が開かれ綿花やたばこが栽培されていた。農場主たちは、必要とする多くの人手を奴隷に依存していた。
チャールストンは、大西洋を隔ててアフリカと向かい合っている。港に入ってくる船には、アフリカからやって来た奴隷船も多かった。連れて来られたたくさんの奴隷たちは、老朽化した船の船底にひしめくように詰め込まれていた。
「奴隷を運ぶためのスペース?一人に棺桶一つほども必要ないさ。」
奴隷商人の言葉である。人間としての扱いとは程遠い状況の中で、長い航海の間に息絶えた者も多かった。また、衰弱したり病気にかかった者たちは、泣き叫んで抵抗し懇願しながら、暗い大西洋の中へと生きたまま投げ込まれた。痛んだリンゴは価値がないばかりか、同じ箱の中の他のリンゴにも傷を移す。奴隷商人にとって、彼ら一人一人を取り巻く家族や友人、人生を謳歌する権利、それぞれが歩んだ人生や命の尊厳などは、リンゴほどの価値も持たなかったのである。
チャールストンの町は、こうした奴隷貿易でも発展していった。奴隷商人もまた、それによって財を成した。
現在では、歴史ある美しい町の特色を生かし、観光業がサウス・カロライナ州の主要な産業の一つとなっている。しかし、繊維産業が盛んだった当時は、奴隷制度の上に州経済が成り立っていた。現在のように機械化の進んでいなかった農業において、大農場の経営には奴隷の安い労働力が必要不可欠だったからである。
サウス・カロライナ州は一七八八年に合衆国に加盟していたが、奴隷制に反対する気運が合衆国内で次第に高まった。中央である北部諸州では工業化が進み、理想主義の思想に奴隷制度が相いれないものだったからである。そうして、奴隷制度に依存する南部諸州と合衆国の間に摩擦が起こり、一八六〇年一二月、サウス・カロライナ州は真っ先に連邦を離脱した。中でもチャールストンは、最も早く合衆国からの離脱を決議した都市であった。最終的に連邦を離脱した州は一一州になった。これらの州は、独立国家であることを宣言して、リッチモンドに首都を置いた。
チャールストン湾沖に、現在もサムター要塞が浮かんでいる。当時、この要塞には合衆国の軍隊が駐屯していたが、南部連盟と合衆国との対立は一触即発の状態にまで高まってきた。サウス・カロライナ州が連盟からの脱退を宣言した翌年の四月一二日。ついに南部連盟はこの要塞に攻撃を始めた。これが引き金となり、この後およそ四年間にわたる南北戦争に火がついた。この事件も、チャールストンという都市の名がアメリカの歴史に刻まれることになった理由の一つである。
東海岸寄りを走るハイウエイは、相変わらず交通量が多かった。周囲の流れに飲み込まれてオートバイを走らせていると気が滅入る。
信号のない高速道路では、渋滞している場合は別だが、必ず幾つかの大きな集団が出来る。ペースの遅い車が一台いると、その車が先頭になって後続車が連なった集団ができる。その中は常に流動していて、少しでもペースの速い車は車線を変えながら前に出て行く。前を走る車に追従して行く車も多いので、大きな集団全体の中での動きは緩慢である。
その集団に、後方から数台の高速集団が突っ込んで来て、そこどけとばかりに背後に張り付いたり、パッシングを浴びせたりしながら突き抜けて行く。そして、しばらくしてまた前の別の集団に追いつくと同じことを繰り返して行く。僕自身は、前の車をあおるような真似はしないが、どちらかと言うとその数台の集団の中に含まれる。でも、それからも抜け出たくて更に加速する場合が多く、怪しい車が背後につけてないか常にバック・ミラーで後ろに気を配っている。怪しいと言っても、急に空を飛んだり、屋根からミサイルを発射してくるボンド・カーのような車ではなく、突然に上向きのライトを点灯させて、赤いライトを天井で回すあの車のことだ。
ともかく、周囲の流れに飲まれて走っているとストレスがたまってきて、ムキになってスピードを上げてしまうことがある。もちろん極々希にであるが、その度に、自分は集団行動には向かないタイプかと思ったりもする。
しかし、一時停止やUターン禁止などのルールや、マナーはちゃんと守っているつもりだ。時速四〇kmの速度制限をキッチリ守って走っていても、信号が変わりそうと見るや加速して信号無視との微妙な所で交差点を抜ける車。それに対して、制限速度を少々オーバーして走っているが、きちんと信号を守る車。一体どちらがまだましだろう。このような考え方自体が良くないのかも知れない。
「両方守れ!」
そう叱られそうだ。書けば書くほど墓穴を掘りかねない話は、このへんで止しておく。
さて・・・。
空の広さには変わりはないが、見えるものは人工の建造物ばかりだった。交通量の多さに蒸し暑さも加わり、快適なツーリングとは程遠い状態にある。ただ、僕の周りを走る車は当然アメリカ製の車が多いし、すべてが異文化の空間であることに変わりはない。そのような中を走ることに慣れてきたとは言え、普段の生活からかけ離れた環境は、やはり僕には刺激的で心を躍らせてくれるものだ。本当に思い切って来て良かったと思う。
ここに来るまでにも色々とあったが、まだまだ旅程の半分を過ぎたばかりである。これから向かう先は、どこも僕にとっては未知の土地だ。何が起こるか今は分からない。
「暑そうだな。」
これからは南部や西部へと向かって行くが、地図を広げて思うのはそのくらいの事である。ただ、テキサス州、ニュー・メキシコ州、アリゾナ州の乾燥した砂漠地帯や、再び横断する事になるロッキー山脈のことを思うと、正直なところ不安はある。何百キロもガス・スタンドがなかったら、車がほとんど通らない砂漠の中でオートバイが故障したらなど、僕の中での過酷な西部のイメージが先行してしまうのだ。
しかし、ここまで走って来たルートをマジックで地図に記してきたが、まだ何も引かれていない長い道程がこの先も続いている。ルートの予定は立ててあるが、地図にある大陸のどこをどのようにも自由に走って行く事が出来るのである。それが今は何より僕にはうれしかった。
当初の予定では、フローレンスという町で泊まる予定だった。その乙女チックな名前の書かれた標識が見えてきた頃、時計の針は夕方五時近くを指していたが、辺りはまだ十分に明るかった。僕は、少し足を延ばして五〇マイルほど先のマンニングという小さな町まで走ってハイウエイを降りた。
ハイウエイでは、頻繁に走る車が路面を乾かしていたのだろう。降りてみると、町は雨が降った後のようで路面はどこも濡れていた。
モーテルを探しながら、ゆっくりと通りを走った。どこにもビルなどは見えず、とても落ち着いた静かできれいな町だった。芝生や木々の緑が多く目に付き、それがこの町の印象を決定付けている。雨に打たれた後、まだ残っている陽射しの中で、その印象は特に際立って美しかった。
モーテルは割とすぐに見つけることができた。小さな町なので、僕はそのままコイン・ランドリーを探すことにした。何軒かの店が並んでいた通りまで戻ってみたが、ここにはなさそうだった。これまでに、モーテルのありそうな場所は何となく分かるようになってきた。しかし、コイン・ランドリーがありそうな場所と言うと見当も付かず、毎度のことだが探すのに苦労する。結局、先のモーテルの前を走る大きな通りをしばらく走った所にあったのだが、たどり着くまでにはかなりの回り道をしていた。
一旦モーテルに戻って、チェック・インを済ませた。部屋は一階のCだった。駐車場は部屋の前にある。角張った二階建てで、建物はコの字型をしている。一見アパートのようにも見える造りだ。
僕は、1−Cの前の駐車スペースまでゆっくりオートバイを走らせた。オートバイを降りる時、二部屋分離れた駐車場に人がいることに気が付いた。男性が、ドアを開けてちょうど車に乗ろうとするところだった。僕は彼と目があった。
「Hi」
彼が、軽く右手を挙げて笑顔でそう言った。
「Hi」
僕もそう答えた。彼は、車に乗り込み、エンジンをかけて駐車場を出て行った。
僕は、荷物を縛ってあるゴム紐を解きながら、いい気分を味わっていた。ちょっとした事なのだが、こんなところが僕のこの国の好きなところである。いつか、自分の方から声を掛けられるようになれればいいと思う。しかし、自然にそれが出来るようになるには、時間がかかるだろう。少なくともこの旅の間には無理だろうな。
僕は、荷物を部屋に置き、洗濯物をバッグに入れてすぐに部屋を出た。ヘルメットも部屋に置いてきた。この国ではノーヘル・ライダーはまだたくさんいるし、一〇〇メートルほどの距離だから大丈夫だろう。日本では、絶対こんな冒険はしないが。
エンジンをかけ、通りへとオートバイを滑らせた。またチェーンの立てる音が大きくなっているようだった。ヘルメットを被っていないのでよく分かる。やはりスプロケットがすり減っているに間違いなかった。誰に何と言われようと、そうとしか考えられなかった。オートバイ・ショップも見つからないし、当面はチェーンを張って応急処置でごまかすしかなさそうだ。
コイン・ランドリーに着いて、洗濯物を大きな洗濯機の中に放り込む。コインを入れて、洗濯開始。他に回っている洗濯機はなく、どうやら客は僕一人のようだった。室内に置かれている長椅子に腰を掛け、今日の日記を付ける。
「グー、キュルル。」
腹が減った。
走行距離 七五一km/九三九六km
八月二八日 二〇時〇〇分
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