PORTLAND
毎日が移動日なのだが、今日はまさに移動のための一日。ポートランドまで九四〇kmを走る予定だ。のんびりとはしていられないのだが、昨夜が遅かったこともあって、朝九時に起きるのが精一杯だった。
「うー。」
それでもまだ眠り足りず、うなり声を上げながら髭を剃る。三〇分ほどかけてちまちまと支度を終える頃、脳もようやく仕事を始めた。
チェックアウトを済ませ、ドアからドアへで隣のコーヒー・ショップに入った。朝の忙しい時間は既に過ぎたのか客は一人もいない。カウンターのストゥールに腰掛け、中にいる太った中年の白人女性にとりあえずコーヒーを注文する。カウンターの中にも彼女一人しかいなかったが、しかし、何だってアメリカ人は歳をとると多くの人がこうも太るんだ。特に腰の辺りの肉付きときたら、まるでてるてる坊主だ。
コーヒーは既にポットに落ちていたのですぐに出てきた。フライド・エッグとトーストを追加して注文する。砂糖を一杯半コーヒーに落として一口飲むと、とたんに空腹感が増した。しばらくして出てきたフライド・エッグとトーストは、トーストに挟まれた卵焼き、つまりサンドウィッチになっていた。トーストはバターで食べたかったのだが、そうなっているんだから仕方がない。
食事を胃に収めて、ジャケットを売っている店が近くにないかてるてるおばさんに聞いてみた。
「ここをこう。そこをこう。それからこのように曲がって。」
彼女が指で空に描くルートに合わせて頭を振りながら聞いていたが、どうやら割りと近くにありそうだった。
オートバイに跨がり、彼女に教えられた道順に従って走っていると、すぐに大きなショッピング・センターが目に入った。入口に続く階段前の歩道に寄せてオートバイを止め、ヘルメットを抱えて階段を上がった。店内に入るとすぐに男物の洋服売場があり、店内を物色して襟の立つ橙色のジャケットを買う。日本円で約六千円。日本人としては背丈はあるほうなのだが、着てみるとSサイズでも少し大きいようだった。店を出てすぐに買ったばかりのジャケットを着た。ジッパーで前を閉じる割と厚みのあるジャケットだったが、湿度がないせいか、それでも暑いと感じることはなかった。
ハイウェイらしい高架の見える方向にオートバイを走らせる。昨夜ぐるぐると市内を走ったが、結局ハイウェイからはさほど離れていないところまで戻っていたようだ。両脇に街路樹が整然と並ぶ通りを走る。昨日は薄暗くてよく分からなかったが、陽射しの中で見るサクラメントの街並みは、きれいに整備されて美しくとても落ち着いていた。こういう町に住んでみたいものだ。
I−5Nouthに乗る。
今回はヨセミテ国立公園に寄って急ぎ足で北上するルートをとったが、また機会があればぜひ走ってみたいルートがあった。L・Aを出発して北のシアトルまでカリフォルニア・コーストやオレゴン・コーストなどの海岸沿いを走るルートだ。U・S101や一七マイル・ドライブと呼ばれる有料道路、STATE1などを乗り継いで走るコースからは、美しい海岸線に野生のアシカやリスなどの姿も見ることができるらしい。オートバイか、もしくはオープン・カーでもレンタルしてのんびり走ってみたい。
さて、I−5に乗ってからはひたすら北に向かって走るだけだ。ポートランドやシアトルまでの距離を示す標識が所々に出てくる。しかし、メートルの単位に慣れているので、四九〇マイルだの三八〇マイルだのの表示を見てもまるでピンと来ない。どのくらい時間がかかるのか、標識を見かける度にいちいちキロメートルに換算しなくてはならない。一マイルは約一・六キロだが、例えば四九〇に一・六を掛けて速度で割って時間を出すという計算を毎回繰り返すのも面倒だ。他に考えることもないので構わなくもないのだが、簡単な計算方法を模索することにした。しかし、景色にふと気を取られては、せっかく頭の中に並べておいた計算式を飛ばしてしまう。集中力がないのか誰でもそうなるのか、いっこうに先に進まない。先は長いのでそれでも差し支えはないが。
GPZのタンク容量は二二リットルなので、一度の満タンで走れる距離は二〇〇km位だ。時間にして二時間弱。キリがいいので二〇〇km毎に休憩を兼ねて給油を繰り返している。今日は四・五回給油することになりそうだった。
アメリカでは、都市を少し離れると周囲はすぐに手付かずの自然に包まれる。国土の広い国ではあるが、これほどの自然の広がりがあることは意外でもあった。人々の暮らす場所は大自然の中にポツリポツリと点在していて、それをハイウェイが結んでいる。大都市と言えども大陸の中ではほんのちっぽけな存在でしかない。ガス・スタンドありの標識にハイウェイを降りても、小さな町があるだけのことが多い。どこも塀や囲いが少なく明けっ広げでのどかな本当に静かな町ばかりだ。
今日初めての給油に寄ったガス・スタンドも、そんな見晴らしの良い場所にポツンとあった。給油を終えてオートバイを建物の脇に止めて煙草に火を点ける。コーラ片手に地べたに座り込んでぼんやり地図を眺めていると、ヘルメットを抱えた男が歩いて来た。今し方ハーレーに乗って入ってきた人だ。彼は僕の隣に腰を下ろして煙草をくわえた。
「どこへ行くんだ?」
「ポートランド。」
「そりゃ、遠いな。速そうなカワサキだな。」
二人で煙草の煙を風に流しながらそんな短いやり取りをしていたが、煙草を一本吸い終えると彼はまたハーレーに跨がって走り去った。静かな町を吹き過ぎて行く風のように彼はひととき隣にとどまって去って行った。僕に何かを与えることも僕から何かを奪うこともなく。この国では誰もが人を好きになれる。独りになった僕はそんなことを思った。
昨日までは平均一二〇km/hで走ってきたが、今日は一四〇km/hまでペースを上げる。朝からすでに結構な距離を走ってきたが、目指すポートランドはまだまだ遠い。カリフォルニア州は南北に向かって長いので、未だにカリフォルニア州を抜けることさえ出来ないでいる。
いよいよオレゴン州が近くなり、シエラ・ネバダ山脈とカスケード山脈がつながる辺りから山間部へと入る。しばらくして、真夏だというのに雪に覆われた山が二つ連なって右手に見えてきた。標高四三〇〇mほどのMtシャスタという山が地図に載っているがこれがそうかも知れない。
いったんハイウェイを降りて路肩にオートバイを止めた。コンクリートで埋められた道路が、緩いカーブを繰り返しながら二つの山に向かって上っている。辺りには建物や人の気配すらもなく、一体誰のための道路なのだろうか。二つの山は、ここから見る限りではそれほど標高があるようにも思えないが、五合目辺りで植物が生活できる高度を越えている。手前側の山は露にした山肌にまだら雪を残す程度だが、奥の山はその半分が純白の雪に覆われている。緩やかな裾野の広がりには、麓まで腰丈ほどの樹が続いており、傘を閉じたような姿の杉がその中にまばらに立っている。白いコンクリートの道路は、その中を縫って通されていた。真っ青な空に浮かぶ独立した二つの山を背景に、澄んだ空気の中でそれぞれの色と形の調和はとても美しかった。
ハイウェイは完全に山脈に飲まれ、高低差のある大きなカーブが続いていた。ここまでただ真っすぐに走るだけだったので、実はいいかげん尻の痛さに耐え兼ねていた。シートの上で体重移動を繰り返していると、その痛みも和らいでくる。
今日の予定の半分ほどを走った辺りで、ようやくオレゴン州に入った。州のニックネームは、「ビーバーの州」「日の沈む州」。西海岸沿いのオレゴン・コーストや、特に今走っているような深い森林や山脈、高原などの美しい自然を州の誇りにしている。環境保護の活動も活発な州だ。豊かな森林資源を生かした農業や林業が盛んで、ポートランドが州内最大都市だが、アメリカは最大都市を州都にしない政策を採っているので、その南にある人口一一万足らずのセイレムが州都になっている。州の南西部にクレイター・レイクという湖があるが、これはMtマザマの噴火口に水が溜まってできた水深六〇〇メートル近いカルデラ湖で、世界で最も美しい湖の一つとして国立公園に指定されている。
赤いホンダ車が前を走っていた。追い越しざまに運転席を見やると、ハンドルを握っていたのはブロンドの若い女性だった。やがて、ホンダはカーブの向こうへとバック・ミラーから消えた。
それからしばらくして道路が直線になると、いつの間に追いついて来たのかバック・ミラーにまたホンダの姿が映った。そして、あっと言う間に僕を追い越して先へ行ってしまった。しかし、コーナーでは彼女のスピードが落ちてまた僕が追い越す。それでも直線になるとまたまた猛然と追い上げてくる。GPZのスピード・メーターの針は一四〇km/hを指している。よほどのスピード狂らしい。特にお互いを意識しているわけではないと思うのだが、しばらくはそのような抜きつ抜かれつが続いた。
かなり長い直線が前に見えてきたので、僕はギアを一つ二つと落として思い切りアクセルを開けた。タコメーターの針が跳ね上がった。メーカーの発表ではこのGPZは最高速度が二五〇km/hは出るらしい。一度試してみたかったのだがいい機会だ。タコメーターがレッド・ゾーンに入ったのを確認してから、素早く最も高いギアへつないだ。タンクに腹を付けて低い姿勢をとっていたが、二〇〇km/hを超えると、カウル越しに見える風景が歪み始めた。いくら二五〇km/hのスピードが出せるとは言え、実際に車体の全てが二〇〇km/hを超えるような速度域での走行に合わせて設計されているわけではないのだろう。風圧によってウインド・シールドに歪みが発生して、視界がかなり怪しくなってきた。二三〇km/hを過ぎたところで、ずっと先に現れた先行車の姿がゆらゆらと揺れながら急速に接近してくるのを見て僕は恐ろしくなりアクセルを戻した。
その後ペースを上げたまま走ったので、ホンダはもう追い着いて来なかった。しかし、彼女のおかげでしばらくは疲れを忘れて楽しむことができた。
しばらく走っているとまた尻が痛くなってきたので、ハイウェイを降りて休憩を取ったが、今日の目的地はまだまだ遠い。もう二・三度は今日くらいの距離を走る計画を立てているのだが、練り直したほうが良いかも知れないとさすがに弱気になってきた。
ハイウェイに戻って、マイルの所要時間への換算方法について再び考えた。平均すると一二〇km/hの速度で走っているが、一二〇km/hだと一分間に二kmの距離を走る。一マイルである一・六kmを走るには〇・八分かかることになる。例えば四九〇マイルだと、四九〇に〇・八を掛けると三九二なので、六時間と三二分かかる計算だ。一二〇km/hで走ることが条件だが、一三〇km/hで走るならそこから一〇%の時間を削ればおおよその時間は出てくる。
「なんだ、〇・八を掛けるだけか。」
この程度の計算を考え着くまでに随分と時間がかかったものだ。我ながらちょっと情けなかったが、長距離を走るのに時間が読めなくては困るのでこれで少しは楽になるだろう。
走れど走れどゴールは遠く、僕はただ前を見てハンドルを握り続けるだけだった。
“ポートランドまで一〇〇マイル”
そう書かれた標識が見えた。その一〇〇という数字に、ゴールが見えかけたような気がした。キロメートルだと一六〇kmになるので、この場合に限ってはマイルの方が都合がいい。最後の給油のためにハイウェイを下りる。ヘルメットを脱ぐと髪はぺちゃんこで、おでこの上辺りから頭全体が痒い。この痒さは長時間ヘルメットを被った経験のある人にしか分からないだろう。
日が暮れて夜も九時近くなった頃、ようやくポートランドの街のものらしい明かりが遠くに見えた。「DOWN・TOWN」と書かれた標識に従ってバイパスへ入る。オレゴン州最大の都市とは言えポートランドの人口は四四万足らずだが、規模はそう小さくはないようだった。ダウン・タウンの標識でハイウェイから一般道に降りる。
ウィラメットとコロムビア、二つの川がこの町を流れている。町の北方に国際空港があるが、ここにはデルタ航空が日本からの直行便を乗り入れている。町の中をバイクを走らせていると、広い空き地の向こう側にぽつんとユニオン駅が見えた。大きな時計台のあるレンガ造りの駅舎はライト・アップされている。
まださほど遅い時間ではないにも関わらず、この辺りはとても静かだった。車の往来がほとんどない静かな道路をスピードを落として走った。この町は北海道の稚内とほぼ同じ北緯四五度に位置している。そのためか、日が落ちると八月にしてはかなり涼しく感じられた。
モーテルを見つけて入りシャワーを浴びる。それから歩いて近くのレストランに出掛け、ステーキとアルコールを胃袋に収めると、よほど疲れているらしく猛烈に頭がふらついてきた。こうして日記を綴っているのがつらい。
今日までずっと西海岸を北上してきたが、計画では明日もさらに北上してシアトルに寄り、そこから東に向きを変えて内陸に向かってスポーケンという町まで四五〇マイルの行程になっている。だが、シアトルまで北上はせずに、ここからそのまま東に向かおう。
とにかく今日は疲れたの一言だ。もうすでにこんな時間か、早く帰って眠ろう。
走行距離 九八四km/一九六〇km
八月一二日 〇時二七分
NEXT 8.12 SPOKANE