SANTA MONICA 3rd day
Chapter.16
朝食と散歩を済ませてモーテルに戻ると、ドアに張り紙がしてあった。紙には、短いメッセージと共に、T・C社の名前と電話番号が書かれている。アメリカに来てから今日で五日が経つ。もしかするとオートバイが船から降りたのかも知れない。僕は、クォーターを数枚用意して、急いで公衆電話に向かった。
しかし、残念ながらオートバイはまだ船に積まれたままのようだった。少しがっかりだが、明後日にはT・C社に届くらしい。書類の方は今日中に揃うので、一度社まで来てくれないかと言うことであった。僕は、明日行くことを相手に伝えて受話器を置いた。ようやく目処が立ってきたわけである。いよいよ出発への実感が身近になり、僕は、にわかに気持ちが高ぶり始めるのを感じていた。
日本で準備をしていた段階で、僕はオートバイを海外に送るための手続きについていろいろと調べた。
まず、旅行目的で一時的にオートバイを国外に持ち出す場合、通常はカルネを取る必要がある。カルネとは、「自家用自動車の一時輸入に関する通関条約」に基づいて発行される、いわゆる無税通関手帳のことを言う。車両をそのまま国外に送ると、輸出扱いとなり関税がかけられるが、カルネを取得しておけば関税を支払わなくて済むのである。
カルネには、JCAA(社団法人 国際商事仲裁協会)の発行するATAカルネと、JAF(日本自動車連盟)が発行するカルネとがある。前者は、商品の見本としてや展示会などで使用する目的で物品を国外に持ち出す際に取得するものなので、この場合はJAFで申請手続きを行う。手続きには、申請書、持ち込もうとする車両に関する記載書、誓約書、登録証書、旅行計画書、スペアパーツリスト、印鑑証明書などの書類の他に、保証金が必要となる。この保証金は何事もなければ返却されるが、日程や通過する国よってはかなりの高額になることもあるので、カルネ保証保険に代えるケースが多いようである。また、国際ナンバー・プレートや国際識別記号も併せて取得しておく必要があるが、詳しいことはJAFに問い合わせれば資料と申請書を送ってもらえる。
カルネの使用には、海外に持ち込んだ時と同じ状態で、一年以内に日本に送り返すことが条件になる。通常の走行による摩耗などは考慮してもらえるが、もし海外で放置、売却をしてしまうと、後で関税を支払わされることになる。
現在、世界でこのカルネが通用する国は多いが、意外にも、アメリカはカルネが使えない国の一つであった。では、アメリカには一体どのようにしてオートバイを持ち込めばよいのか。僕はアメリカ大使館を含め、輸送会社やいろいろな機関に電話をして聞いてみた。しかし、どこに尋ねても、はっきりとした回答を得ることは出来なかった。あちこちで情報が曖昧で、アメリカでの許可が下りるかどうかは、どうやら税関の担当係官によっても左右されるようだった。以前は受けてもらえたが、次は断られて日本に持ち帰ったなどと言う話も聞かされた。そのため、大手の運送会社では、個人の、アメリカ向けの旅行目的でのオートバイ輸送はまず引き受けてもらえないようである。この時代に、日米間でもその様なことがあると知って驚いたが、それが現実のようだった。
手当たり次第に電話をかけている中で、あそこなら引き受けてくれるだろうと、横浜にある小さな会社を僕は紹介してもらった。係官次第などと言うこのような仕事では、やはり小回りの利く小さな会社でなければ難しいのかも知れない。紹介してもらった業者に電話をかけてみたところ、僕の話を聞いて相手は即答した。任せてくれ、と。
それから、今後の手続きについて話し合った。カルネを取得せずに海外にオートバイを送るには、まず日本での登録を抹消しておかなければならない。アメリカに着いてからの登録には、現地の日本人エージェントを手配しておく。話しの中で、相手はそう言った。そのエージェントと言うのが、T・C社だったのである。僕は、言われた通りナンバー・プレートと車検証を持って陸運局に行き、廃車の手続きを済ませた。しかし、これが後に面倒なことになる。
ラジオ、煙草、灰皿、ガイド・ブック、ロードマップ、レポート用紙、ペン、コーヒー。部屋の出たり入ったりを何度か繰り返し、それらを通路の向かいに置かれたテーブルの上に広げた。今日もすこぶる快晴で、白いテーブルに反射する陽射しが眩しい。海からの乾いた風は、実に心地良かった。段取りが進んだこともあり、今の僕は大変に上機嫌である。何のためにアメリカくんだりまでやって来たのか分からないような時間を過ごしてきたが、目的はオートバイでこの大陸を走ることである。ただ、何カ月もかけていろいろと準備はしてきたが、走るルートについては、実はまるで決めていない。行きたい場所の候補は幾つかあるが、あまり計画ずくめにはしたくなかったし、折角だから行き当たりばったりを楽しむつもりでいた。L・Aからどこかに向かって走り出し、その日に入ったモーテルで、その後の予定を決めればいいと考えていた。でも、こうして思わぬ時間がぼっかりと空いてしまったので、僕はこれからルートを決めることにした。
ガイド・ブックを見ながら、まずは行きたい場所をリスト・アップしてレポート用紙に書いてみる。それから、それぞれの場所を全米の地図で確認した。すると、エリアはかなりの広範囲に及んだ。くまなく、ほぼ全米に散っている。途中で何が起こるか分からないので、航空券は高い料金を支払ってオープンのものを買ってある。場合によっては差額を請求されるが、これなら、アメリカを発つ際の空港をどこにでも変更することが出来る。オートバイを日本へ送り返す為の輸送会社も、大都市なら見つけることが出来るだろう。だから、この旅は、どこを回ってどこで終わりにしてもよかった。僕にも人並みに仕事があるので、九月初旬までに日本に帰れればいい。
飲み干したコーヒーを新しく入れ直すために、僕は部屋に戻った。部屋のドアは開けたままにしてある。部屋とテラスのようになった外の空間とがつながっていることに、僕は大変満足していた。パックに入ったインスタントのコーヒーをカップに移し、備え付けの小さな機械ですでに沸いていた湯を注ぐ。
昨日まで、部屋の床ではなく机の上に、プラスチック製の小さめのゴミ箱が置いてあった。コーヒーを入れた後、僕はゴミになったパックなどをその中に捨てていた。そのゴミ箱が、今日散歩から帰ってくると部屋からなくなっていた。これは後で知ったことだが、アメリカ人は、ジュースなどを部屋で飲む時によく氷を使うらしい。そのため、ホテルやモーテルでは、大きな製氷機を大抵建物や敷地内のどこかに備えてあり、客はその氷を無料で使って良いことになっている。部屋に置かれていたあのゴミ箱のような容器は、実は氷を入れるために用意されていたのである。そうとも知らずに、僕はそれをゴミ箱として活用していた。いいかげんに呆れたルーム・メイドが、おそらく部屋の掃除の際に片付けてしまったのだろう。
風が少し強くなってきた。地図が飛ばされないように、ラジオやコーヒー・カップを上に乗せた。僕は、すぐ前を走る通りにしばらく目をやった。今は陽が最も高い位置にある時間で、パーム・ツリーが路上に落とす影は、そのほぼ真下にくっきりと出来ている。車の往来は少なく、ショート・パンツにタンク・トップやTシャツ姿で歩く男女の姿が見える。急ぐ必要はなかった。時間はあるのだから、ゆっくり考えれば良かった。二つ向こうのテーブルでは、先ほど二階から降りてきた老夫婦が、時折口を開く程度に静かに話をしている。時間は、ゆっくりと快適に流れていた。
三時間ほどが経ち、ようやくルートが決まった。結局、せっかく来たのだからと、アメリカを一周することとなった。僕は、距離を計算しながら、レポート用紙に日程を書き込んだ。
まず、L・Aを北に向かって出発してから、ヨセミテ国立公園、サクラメント、サンフランシスコ、ポートランドを経由して、カナダとの国境に近いシアトルまで西海岸を縦断する。シアトル到着は出発から四日後になる。そこからは東に向かい、イエロー・ストーン国立公園、マウント・ラッシュモア、ミルウォーキー、シカゴを周り、ナイアガラの滝を経て大西洋岸のニューヨークまで大陸を横断する。ここまでが出発から一四日目。ニューヨークのすぐ北にボストンがあるが、日程の都合上ボストンには寄らずに東海岸を南下する。ボルティモア、ワシントンD・C、リッチモンドなどを経て、マイアミに至るまで、東海岸縦断が一九日後。それからフロリダ半島を周り、メキシコ湾に沿って今度は西に向かい、ニューオリンズ、ヒューストンへ。ここで、全米を大きく一周するためにそのまま西に走り続けて、サン・アントニオ、エル・パソへと向かうか、もしくは、北上してダラス、オクラホマ・シティに向かうか。悩んだ末に、僕は北上することにした。僕の中でのテキサス州南西部とは、ガソリン・スタンドすら滅多に無いような、過酷な砂漠のイメージがあったからだ。実際のところはよく知らないのだが。ヒューストンを出てオクラホマ・シティまで北上したら、再び西に進路を取り、モニュメント・ヴァレー、グランド・キャニオン、そしてラスヴェガスを通ってL・Aに戻る。ここまで、全部で二七日間の日程となった。
訪れてみたい所はまだ他にもたくさんあるが、また来る機会が得られることを僕は信じた。予定通りなら、再びL・Aに戻って来るのは九月四日になる。全走行距離は、大まかな計算で九二〇〇マイル、およそ一四八〇〇km。一日平均五五〇kmを走ることになる。妥当な距離だろうと思った。しかし、一日の走行距離が八〇〇kmを越える日が三日、九〇〇kmを越える日が二日ある。この辺りは、いささか強行軍のような気もしなくはなかった。
「成せば成る。成さねば成らぬ何事も。」
堅苦しい文句で、僕はページの最後を締めくくった。そして、日本を発つ時に、部屋に残してきたメモのことを思い出した。メモには、次のように書いていた。
「もし戻って来られなくても悔いはなし」
辺りの空気は昼とは違った匂いに変わり、陽射しも和らいでいた。僕は、暗くなるまで居心地のいいテーブルで、ガイド・ブックなどを眺めて過ごした。
八月六日
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