SANTA MONICA 4th day
Chapter.17
午後の早い時間、近くのホテルの前でイエロー・キャブを拾い、スプリングStにあると言うT・C社に向かった。場所は、ブロードWayとメインStに挟まれたスプリングStだと聞いていた。ガイド・ブックのダウン・タウンの地図を見ているとちょうどそういう所があったので、あらかじめ破っておいたその地図を、僕は中年の黒人ドライバーに渡していた。
車がダウン・タウンに入ると、スーツ姿の働き蟻たちが街の中を歩き回っていた。肌の色や顔立ちを除けば、その様子は日本のサラリーマンと変わるところはない。街は雑然とした印象で、想像していたほど明るいものではなかった。人種は、確かにるつぼである。ヨーロッパ系、アフリカ系、南米系、アジア系。よくぞこれほどの人種が一堂に会したものだと、僕は車の窓越しに通りを眺めながら独りごちた。
カリフォルニア州には特にヒスパニック系の人種が多く、アジア・太平洋系人種が占める割合も高い。州人口の四分の一をヒスパニック系が占め、世界中にあるチャイナ・タウンの中でも、アジア以外ではサンフランシスコにあるものが世界最大規模となる。これは、州南部がメキシコとの国境に接し、また太平洋を挟んでアジアと向かい合っていることだけが理由になっているわけではない。
ここで、カリフォルニアの歴史を紐解いてみる。
カリフォルニアは、一八五〇年に、合衆国三一番目の州となった。そのずっと以前は、一〇〇を超えるネイティブ・アメリカンの部族がこの地域に暮らしていた。
スペイン人航海士ホワン・ロドリゲス・カブリリョがヨーロッパ人として初めてこの地を発見したのが一五四二年。その後しばらくスペイン政府はこの土地を放っておいたが、一七六九年に初めて探検隊を送り込み、本格的な植民に乗り出した。その後の一八二一年にメキシコがスペインからの独立を勝ち取ると、スペイン植民地であった現在のテキサス州からカリフォルニア州に至るまでの地域も、メキシコの領土として組み込まれた。それからはメキシコ人入植者がこの地域に増え、ネイティブ・アメリカンは次第に数を減らしていった。
現在のL・Aがある地域にも、一八世紀後半にメキシコ人神父が多くのミッションを建て始めたために、メキシコからの入植者が増えていた。一七七九年、彼らは、現在のユニオン駅近くにあるオルヴェラStの辺りに小さな集落を造った。その時の住民は、十一家族、総勢四四人であった。彼らはその集落を、「El Pueblo de Nuestra Senora la Reina de Los Angeles de Porciuncula(我々天使の女王マリアの町)」と名付けた。それが今のロス・アンゼルスの地名の由来であり、また、この場所がL・A発祥の地となった。現在でもオルヴェラStはメキシコ人街になっており、メキシコ産の土産物を売る店やメキシコ料理店などが軒を連ねている。L・Aで最も古い家とされるアビラ・アドベもここで一般に公開されている。
一八四六年、テキサスの領土問題を発端にしてアメリカ・メキシコ戦争が起こった。元々テキサスはメキシコの領土であったが、アメリカはこれの買収の申し入れを再三に渡ってメキシコに打診していた。奴隷制の廃止を進めるメキシコに反対して、テキサスの植民者も合衆国への参加を希望していた。しかし、アメリカ側の申し入れをメキシコが断ったことからテキサス内部で反乱が起こり、一八三六年に、テキサスは共和国として独立を果たした。それから九年後の一八四五年、テキサスは合衆国に加盟した。アメリカ・メキシコ戦争に対してアメリカは、このテキサスの併合を不服として戦争を仕掛けてくるメキシコに対する防衛戦争であるとの大義名分を付けた。しかし、実際はメキシコ領であるカリフォルニアまでの土地の取得を目的としていた。この戦争で、アメリカはすぐにカリフォルニアに侵攻し、一八四七年の九月にはメキシコの首都であるメキシコ・シティを占領した。戦争に勝利したアメリカは、一八四八年二月に両国間で交わされたグアダルーペ・イダルゴ条約で、現在のニューメキシコからカリフォルニアに至るまでの広大な土地を譲り受けることになった。その代償としてアメリカがメキシコ側に支払ったのは、およそ一八〇〇万ドルというわずかな金額であった。
グアダルーペ・イダルゴ条約の調印が交わされるわずか九日前、サクラメントの東部で偶然金が発見された。金発見のニュースは瞬く間に世界中に広がり、その年の末には、アメリカ史に残るゴールド・ラッシュが始まった。各地から金を目当てに人々が押し寄せ、最初の二年間で人口は急激に膨れ上がった。いわゆる「フォーティ・ナイナーズ(四九年組)」とは、この人たちのことを指して言う。金を目当てにこの地に押し寄せて来たのは、幌馬車を連ねて東部から陸路を通ってやって来た人ばかりではなかった。太平洋を航海して、はるばる中国からサンフランシスコ湾に入った人々も多かった。一八四八年からの五年間で一〇〇倍以上に膨れ上がったカリフォルニア州人口の一〇人に一人は中国人だったという事だから、それは相当な数になる。そして彼らが、サンフランシスコに大規模なチャイナ・タウンを築く基礎となったわけである。
以上が、ヒスパニック系や中国系人種がこの地に多い理由であるが、その後の政策でもアメリカは積極的に多くの移民を受け入れ、現在では世界でも特異な他民族国家となっている。しかし、そうして人口が増え続けるアメリカは、常に深刻な失業者問題に悩まされ、ここ最近の好景気の中でも依然として失業者の数は多い。この問題は何も移民だけが原因によるものではないが、国内では移民受け入れの規制を求める声も高まっている。人種が雑多で移民の国と言われるアメリカだが、雇用の確保と国民の支持を得るためにも、政府は移住に対する制限を年々厳しくしている。
ここで少々道草を食いに行き、現在のアメリカ合衆国への移住状況を調べてみる。
留学や専門職での就労のために、非移民ビザを取得して短期間アメリカに移住するのは、さほど困難な事ではない。しかし、無期限・無制限にアメリカで就労し生活することが許される永住権(移民ビザ)は、限られた条件を満たさなければ取得することは出来ない。アメリカ人と結婚することで資格を得るか、詳しくは後で述べるが抽選により獲得するか、雇用ベースで取得するかである。この中で雇用ベースで取得をする場合には、専門分野に於いて十分な経験知識を持っており、また、それがアメリカにとって有益と認められなければ困難となる。雇用者が取得の申請を行ってくれた場合でも、職種によって何段階にも分けられた優先順位が設けられていて、許可が降りるまでには三〜五年の期間が必要となり、もしその間に職場を変えると申請は白紙に戻される。
以前、ニューヨークで事務職に就いて暮らしていたという女性と話をしたことがある。当時の彼女は二〇代後半だったが、五年間頑張っても永住権を取得することが出来ず、ついに諦めて帰国して来たばかりだと言っていた。専門職ではなく事務職だったことも多分に影響したが、今のアメリカでの永住権の取得がいかに難しいかと言うことを、彼女は熱心に語った。ちょうど僕もアメリカへの移住について興味を持っていた頃だったのだが、彼女の話を聞いていて、それまでの認識の甘さを思い知らされることになった。
特別な経験や資格を持たない人が漠然と永住権を得たいと思っても、それはほとんど不可能に近い。ただ、それでもアメリカへの移住を希望する人たちにも、DVプログラムと呼ばれる「移民多様化ビザプログラム」によって、抽選で永住権を得る方法がある。暫定的にではあるが、アメリカ国務省によって一九八七年から実施されているこのプログラムは、出身国別の移民数が偏らない事を目的としており、過去五年間のアメリカへの移民数が五万人を超えない国を対象にして行われている。香港を除く中国やフィリピン、アイルランドを除くイギリス、カナダ、メキシコなどの国がその対象から外される事が多いが、この場合でも、両親のどちらかかもしくは配偶者が対象国の生まれであれば構わない。プログラムへの応募期間は、翌々年発給分のビザに対して、毎年一〇月の第一月曜日からの一ヶ月間となっている。他に応募資格として、高等学校卒業もしくはそれと同等の学歴を持つか、或いは、過去五年間に、少なくとも二年間の研修か実務経験を必要とする職業に二年以上従事した経験が必要とされる。応募に際して所定の用紙はなく、無地の紙に必要事項を英文でタイプするか正確な活字体で記入し、写真を貼って直筆のサインを入れ、アメリカにある指定の領事センターに郵送すればよい。このプログラムによって、毎年五五〇〇〇人がアメリカでの永住権を得ており、日本人では、毎年五万人ほどの応募に対してその内およそ一パーセントの人が当選している。年度によって条件などが変わるので、応募方法を含めて詳しい情報は、アメリカ領事館や大使館などに尋ねれば教えてもらえる。手続きを代行してくれるエージェントもあるが、大抵は手数料が必要になる。抽選は無作為に行われるので、書類は誰が作成しても条件は変わらないし、実際に海外で生活することに比べれば簡単な手続きなので出来れば自分で行いたい。
ただしこのプログラムは、永住権を持たずに今現在アメリカに住んでいる人達にも応募資格が与えられる。例えそれが不法滞在者であっても変わらない。彼らの中には、複雑な事情を抱えている人も多いだろう。当選したにも関わらずビザを有効に使わない人が多いらしいが、彼らの事を考えれば、安易な気持ちで応募することだけは絶対に避けたいものである。
年々困難になって行くアメリカへの移住については、アメリカ国内に於ける失業者増加の問題を抜きにしては語る事が出来ない。努力をしてアメリカでいい仕事に就く移民も多い。しかし、それによって元々の国民である人達の職が失われて行くのも確かである。頻繁に取り沙汰される黒人差別の問題と違い我々日本人には認識が薄いと思われるが、中でもネイティブ・アメリカンと呼ばれる人達の失業率は、居住地によっては七〇パーセントを超える所もある。現在の先進国家アメリカにあっても、貧困が理由で死亡する人の数が、彼らには際立って多いのである。国とは、営利目的の企業ではない。国民が集まって国は造られている。アメリカの移民受け入れ政策が意味の無いことだとは言わないが、その為に、享受されるべきものを享受されずに多くの国民が路頭に迷っていたのでは、それは本末転倒と言えよう。
また話がそれてしまうが、バブル景気時代に日本は強い「円」で世界を買い漁った。ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収し、企業は恥知らずとも思えるほどの高額で海外の名画を次々に競り落とし、海外の主要都市には日本の銀行の看板が誇らしげに並んだ。三菱地所がアメリカ人のシンボルと言われていたニューヨーク・ロック・フェラー・センターを買収した時には、アメリカの魂を金で買ったとの強い批判を受けた。その時、多くの日本人が感じていたのは、自国の強さとエリート意識だっただろう。好景気にただ浮かれて踊らされ、多発するジャパン・バッシングに、彼らの気持ちを理解しようとする謙虚さなど持ち合わせてはいなかった。
現在、日本は出口の見えない不況に喘ぎ、その時のツケを払わされている。政府の不景気底打ち発表からしばらく経つが、次々と新聞紙面を飾る暗いニュースに、我々は否応無く暗澹とした気持ちにさせられている。終身雇用制度の崩壊、リストラの横行、銀行の破綻。受験戦争で個性や独創力をないがしろにしてきた結果、文化は発展せず、豊かな発想力を必要とされるハイテク時代の到来において、日本は、アジアの中でも遅れをとっている。
日本人はどのような反応をするのだろうか。海外の優秀な人材に押されて我々が国内での職を失うようになったら。世界中に進出して戦後の日本経済を引っ張ってきた自動車産業。その業界の雄である日産自動車が海外資本の手に渡ってから久しい。かつてジャパン・バッシングを訴えてきた彼らの思いを、我々日本人は今になってようやく理解する事が出来ている。力を持った時、それをコントロール出来ない国が、国際社会で指導力を得ることは出来ないだろう。
さて、話がどんどん横道にそれて行くので、この辺りで元に戻ろう。
僕が乗ったイエロー・キャブはスプリングStに入ったが、なかなか目指す番地を見つけることが出来ないでいた。
「本当にここでいいのか?」
「ええ、多分・・・。」
ドライバーの質問に対する返事も、初めて来る場所なのだから自信がない。先ほどから何度も同じような場所を回っているが、どうも違うような気がしないでもなくなってきた。電話番号は分かるかとドライバーに聞かれ、番号の書いたメモを渡すと、彼は路肩に車を止めて公衆電話に向かった。そして、五分ほどして、人懐こそうな笑顔を浮かべて戻って来た。彼は、狭い車内で大きく手を広げて笑いながら何か言っている。やはり、見当違いの場所に来てしまったようである。
再びハイウエイに乗り、彼が電話で確認をした場所へと車を走らせる。一五分ほどハイウエイを走ってから、一般道に降りてまもなくT・C社に着いた。先ほど探し回っていたダウン・タウンとは、まるで方向違いである。T・C社は、大きな倉庫を併設した二階建てで、建物の手前にコンクリートの敷かれた広いスペースがあり、想像していたより立派な社屋であった。ダウン・タウンに回り道をした分メーターの料金は増えているわけなのだが、ドライバーはその分はサービスしておくよと言った。
「英語が話せないんだろう。」
そう言って、彼は車から降り、ドアの横にあるインターフォンを押した。日本のオフィスと違ってセキリュティがかかっており、誰でもドアを開けて中に入れるわけではないようである。僕は、インターフォンを押す彼の後ろ姿を見ながら、彼の親切に感動していた。L・Aやここに暮らす人々、この街を走るイエロー・キャブに対する認識が、僕の中で大きく変わった瞬間である。間もなくして出て来た若い女性が日本人であることを見ると、彼は手を振って車に戻り、そのまま走り去った。
Chapter.18
女性に案内されて、二階建てになった建物の、一階にあるオフィスに入った。中には女性ばかり六人ほどがデスクに向かっていたが、皆日本人のようである。社長室が二階で、またそこに行くための階段が奥にあると言うことを教えてもらい、僕はその階段を上がった。
国際電話では何度か話をしたが、実際に笹河社長に会うのはこれが初めてだった。彼の生活の拠点は今はL・Aのようだが、海外で会社を興すだけあって、なるほど見るからに個性の強そうな人物である。詳しくは僕も知らないのだが、T・C社は、日米間での輸出入や、主に引っ越しなどを取り扱う会社だろうと思う。日本へ帰国してから一度訪問したが、日本での窓口は横浜中心部の雑居ビルの中にあった。
挨拶の後、まずアメリカでの車両登録を行いたいと、僕は笹川氏に告げた。しかし、ここで思わぬ話の食い違いが出てきた。
日本からのオートバイの輸送を最初に委託したのが、T・C社でないことは先に述べた。輸送会社を実際に探し始めたのは今年の五月頃で、僕は大手の輸送会社などを含めて数社に当たってみた。しかし、これも先に述べた通関の際の問題や、個人の依頼では特に複雑なオートバイ輸送の手続きの割に合わないなどと言った理由でどこも断られ、僕はたちまち壁にぶつかってしまった。結局、ある大手運送会社に紹介してもらった、横浜にあるDと言う会社に頼むことになった。
七月の中頃、D社から自宅にファクスが送られて来た。用紙には、費用の内訳などが書かれていた。まず、木枠作製料として三五〇〇〇円。これは、オートバイを海外に送るためには、木枠に納めてコンテナに積む必要があるためである。輸送費はその木枠の体積と重量によって決まるのだが、オートバイでは体積に対する重量の限度を超えることはない。そのため、タイヤを外してできるだけ木枠を小さくし、なお空いたスペースに他の荷物を詰め込むことも出来る。僕は、面倒なのでタイヤは外さずにヘルメットだけを同梱して送ってもらうことにした。そして、倉庫入出庫料二〇〇〇〇円、トラック搬入料二〇〇〇〇円、通関料一〇〇〇〇円、海上運賃六〇〇〇〇円、書類作成料五〇〇〇円で、往路の合計金額が一五〇〇〇〇円となっていた。実際には、通関料は六〇〇〇円ほどに法律で決められているなど、この料金にもおかしな部分があることが後になって分かっている。
またファクスには、現地アメリカに於ける通関及び車両登録の手続きは、T・C社の笹河社長に依頼済みであるとも書き添えられていた。T・C社を知ったのはその時である。ところが、笹河社長は登録の話は聞いていないと言う。オートバイの輸送が専門ではないので詳しい手続きは分からない。スタッフを同行させるので、日本の陸運局にあたるD・M・V(Departemt of Motor Vehicles)へ行ってみるようにと彼は言った。同行してくれるというスタッフは、間もなく戻るということだった。
「D社からの書類を見せてもらえますか。」
僕は一階のオフィスに下りて、そこで仕事をしている女性の一人に頼んだ。
彼女は、壁に付けて置かれているスチール製のロッカーの引き出しから、一つのファイルを取り出した。僕はファイルを受け取り、そこに挟まれている書類の中から、D社からT・C社宛に送られてきた手紙を取り出した。手紙には、「ライセンス取得の手続きもお願いします」と書かれていた。
(一体どうなっているんだ。)
「復路をウチに任すのでなければこの仕事は受けられない。」
日本で準備をしていた時、輸送の話を詰める電話の中で笹河氏はそう言ってきた。その時点では往復の輸送をD社に依頼してあり、T・C社は現地での通関と移動だけを行うことになっていた。それを突然そう言い出した事について笹川氏は、D社が、輸送を請け負った車を放っておいたり、支払いが滞っているなどで信用が出来ない事を理由として挙げた。結局、僕はD社に電話をして、L・A以外の都市からオートバイを送り返すことになるかも知れないからと復路を断り、代わりにそれをT・C社に任せることにした。
このようなこともあり、今回の輸送については、当初からわだかまりを感じていた。目の前にある書類を見る限り、電話でも書面でも、車両登録の件は確かに三者の間で確認されているはずである。僕は笹川氏の話とD社からの手紙の内容の食い違いに納得が行かなかったが、とにかく今は登録を済ませることが先決であった。しかし、事は思うようにすんなりとは運ばなかった。
Chapter.19
手続きに同行してくれるという女性が戻り、僕は彼女の車でD・M・Vに向かった。
途中、彼女のご主人が経営する車の修理工場に立ち寄った。仕事上、車両登録に関して知識があるだろうという理由からである。ご主人もまた日本人だったが、日焼けした造作の大きい顔立ちに口ひげをたくわえた、見るからにタフそうなイメージの男だった。
「登録を抹消しなくても輸送は出来るんだよ。」
僕が今回の話の内容を告げると、彼はそう言って工場の裏に置いてあるシボレーを指でさした。修理で預かっているというそのシボレーには、確かに横浜のナンバーが付いたままだった。
「登録は難しいかも知れないな。」
彼はそう言った。
D・M・Vの建物は、濃い灰色をした角張った大きなもので、行政の機関としては日本のものと比べるとかなり瀟洒な造りに見えた。
僕たちは建物の中に入ってから窓口に行き、アメリカでのプレートの取得が可能かどうかを尋ねた。その質問に対して係の女性は、アメリカに住所があり、なおかつアメリカの免許証を持っていることが条件だと言った。観光ビザで訪れた、国際免許証しか持たない僕には、無理な話である。
「何かいい方法はないですか。」
僕たちがしつこく食い下がると、その女性は言った。
「日本のプレートを付けて走りなさい。」
(そんな事でいいのか。)
僕は呆気にとられたが、廃車にしているので今はその日本のプレートすらない。そのことを告げると、彼女は、おどけるように口をへの字にして、軽く頭を傾けて言った。
「じゃあ、無理ね。」
再びT・C社に戻ってから、笹川氏やスタッフたちを交えて相談してみたが、問題が専門的な事ゆえにいくら話し合ってもいい案は浮かばなかった。
そして、最終的には、プレートのないまま走る他ないという結論に至った。無茶な話であることは承知の上だが、それがどういう結果になろうと、ここまで来て日本に引き返す気になど到底なるはずがない。今おめおめと帰国するくらいなら、少しでもオートバイで走り、強制送還によって帰国する方がまだましである。強制送還はないだろうと思うが、昨日今日の思い付きではるばる日本から飛んで来た訳ではないのである。オートバイは確かに日本から送った自分のものであると証明出来る書類は揃っているので、何かあった時には、プレートは失くしたと言って通す事にした。日本なら絶対に見逃してはもらえないだろうが、僕は、アメリカ人の寛容さに賭けた。特別厳しい地区があることを、ずっと後に思い知ることになるのだが。
登録についての話はこれで終わり、アメリカ側での通関手続き費用として二五〇ドル、港からT・C社までの運搬費用に一五〇ドル、合計四〇〇ドルを、僕はトラベラーズ・チェックで支払った。オートバイは明日中にはT・C社に届くということなので、明後日の午前中に引き取りに来ることにした。
「サンタモニカのモーテルまで車で送りますよ。」
時刻は午後五時を過ぎて、T・C社も終業時間が近づいていた。自宅がサンタモニカに近いと言う女性スタッフのその言葉に、僕は甘えさせてもらう事にした。
ハイウエイを走る車の中で、観光で訪れていた若い日本人女性が、サンタ・モニカの浜辺でレイプされるという事件が最近あったと聞かされた。女性は一人で浜辺を歩いていたようなのだが、白昼に起きた事だったらしい。周りには人もいたが、止めようとする人は誰もいなかったと言う。空港に着いてから今日まで、よく耳にするような身の危険を僕自身はまだ感じたことがない。それどころか、今日も親切なタクシー・ドライバーに会ったばかりである。しかし、やはりここは日本ではない。この国の持つ様々な顔を、僕は思い知らされていた。
ハイウエイを降りて、僕が宿泊しているモーテルの前で車は止まった。彼女は遠慮したが、僕はわずかばかりの謝礼を渡して別れた。彼女は、初めは旅行会社の社員としてこの町に来たのだと言っていた。それが、何かのきっかけでT・C社に勤めることになったらしい。
「ただの運送会社ですよ。」
そう言った僕よりも年下の彼女が、何だか頼もしく見えた。
八月七日
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