WASHINGTON D.C. 4th day
朝六時半起床。こんなに早い時間に起きるのは久しぶりである。
今日オートバイが取り戻せることを信じて、ホテルはチェック・アウトした。いずれにしろ、ここは高くてそう何日も泊まっていられない。
荷物担ぎ、ヘルメットを手にメトロへの長いエスカレーターを降りる。
「ヴィエナ、ヴィエナ。」
構内にある電光表示の路線図で目的の駅を探した。ここから二駅目のメトロ・センターでオレンジ・ラインに乗り換え、そのまま終点まで行けばそこがヴィエナだった。これなら簡単だ。僕は券売機で切符を買い求め、自動改札を通ってホーム出た。
ホームはきれいだったが、ここも少し暗かった。照明を明るくしないのには何か理由があるのだろうか。ホームの壁に掛けられた案内板で行く先を確認していると、二、三分で目の前に電車が滑り込んで来た。車内は空いていた。それでも、乗り換えのメトロ・センターまでは二駅の距離なので、僕はドアのそばに立ってガラスに映る自分とにらめっこをしていた。
メトロ・センターには、レッド、ブルー、オレンジの三つの路線が乗り入れている。乗りたい路線のホームには、構内に標されたそれぞれの色に従って進めばいい。迷うことなくオレンジ・ラインのホームに着いた僕は、すぐに入って来た電車に乗り込んだ。終点のヴィエナに着くまでには、途中一二ほどの駅を過ぎなければならない。空いている車内で座席に腰をかけて、僕はひとまずくつろいだ。
二つか三つ駅を過ぎただろうか。僕の乗った電車は、大きな駅のホームに入ったようだった。
「L’Enfant Plaza」
どう読めばよいのかは分からなかったが、ホームにはそう書かれていた。すっかりくつろいでいた僕は、ゆっくりと、車内に書かれてある路線図に視線を向けた。
「そんな駅は・・・ないなあ。ん!?」
向かっている方向が、逆だった。僕は慌てて電車を飛び降りて、反対方向に向かう電車に乗った。
ヴィエナ駅で電車を降りて改札を出ると、典型的な郊外の風景がそこに広がっていた。ここは、メリーランド州になる。オレンジ・ラインはしばらく地下を走っていたが、途中からは地上に出ていた。
駅前には大きな駐車場があるだけだった。ほとんどのスペースは埋まっている。この辺りは、D・Cのベッド・タウンでもある。自宅から車で来た人がここに車を置き、メトロに乗り換えて、ワシントンD・Cにある勤務先へ向かうのだろう。東京近郊にも、このようなシステムの導入を検討している自治体はあるらしい。都心への車の流入を減らすのが目的と言うことだが、そのためには、まず駅近くに広大で料金の安い駐車場を用意する必要がある。土地が高く、ほとんどの駅前が開発し尽くされている現状では、実行するには思い切った改革が必要になるだろう。
腕時計を見ると、八時三四分を指していた。電車の方向を間違えてしまったため、約束の時間に四分の遅刻だった。駅構内に人の姿はなかったので、僕は広い駐車場を見回した。四列ほど向こうに停まっている黒の大型セダンに女性らしい人影が見えた。近づくと、運転席のウインドーがゆっくり開き、日本人女性が顔を出した。
「遅れてすみません。ブーツさんですか?」
「すぐに私が分かった?」
小さく頷いてからそう彼女は言った。
「ええ。分かりました。」
「そう。それなら大丈夫よ。」
その言葉の意味は読み取れなかったが、ブーツさんに促されて僕は助手席に乗り込んだ。
彼女がセレクター・レバーをドライブに入れると、車はゆっくりと静かに走り出した。車は、最新型のキャデラックだった。巨大な黒塗りのボディはきれいに磨かれている。ブーツさんは日本人でも小柄なほうに思うが、それでもフル・サイズのキャデラックを操るあたりは、やはりアメリカらしい。
東京でも、排気量五〇〇〇ccを越える、左ハンドルのメルツェデスに乗った女性ドライバーによくお目にかかる。しかし、大きな車体を持て余してスムーズに走れなかったり、左ハンドルのために対向車線の確認が出来ず、停車したバスの後ろに引っかかったりするドライバーが多い。その度に、自分の運転技術に見合った車を選んではどうかと、たまたま後ろに付いて走っていた僕はつぶやいている。
「大変なことになったものね、あなたも。」
ブーツさんのその言葉に、僕の方は返す言葉がなかった。
キャデラックは、邸宅がまばらに点在する静かな郊外の道路を走っていた。森が多く、その中を道路は蛇行している。他に走っている車に出会うのも希だった。
「いいところですね。」
言ってから、ありきたりの言葉だなと思った。
「あなたはどこに住んでるの?」
「実家は四国ですけど、今は東京です。」
「東京、楽しい?」
そう聞かれると、どう答えれば良いものかいつも戸惑う。
これまでにも何度か同じ質問を受けたことがあるが、その都度「まあ」と適当に答えてきた。はっきり楽しいよと答えたこともあるが、どこがと更に聞かれてまた返事に窮する。
僕は、四国を離れて一年ほどを大阪で過ごし、その後東京に出てきた。大阪で、新幹線が走る姿をビルの間に見た時、なぜか東京に行くことを決意し、その数日後に荷物を車に詰め込んで大阪を出たのだった。
先に上京していた同郷の友人が二人いて、その後三人が上京してきた。いつもそのメンバーの中であちこちへ出掛けていた。何を見ても何をしても刺激的だったが、何年か経つと、慣れからかそんな感動も次第に薄れてきた。つまらなくなったわけではない。賑やかで、常に変わり続ける街並みはいつだって新鮮であるし、静けさを求めれば与えてくれる場所も近辺にはある。求めれば、どんなシチュエーションの場だって都内及び近郊にはある。新しい人と出会う機会も生活のあらゆる場面にあり、一人になりたければ孤独感に耐えられなくなるまで放っておいてくれる。絶対的な人口の多さが、どんなマイナーな事も実現可能にしてくれる。そして何より、街行く女性の美しさには特筆すべきものがある。
しかし、その華やかさの分だけ影が多いのも事実だ。この大都会で自分を見失ってしまえば、それら全ての事が仇になる。都会に潜む魔力が、ブラック・ホールのように至るところで口を開けている。
東京では、その魔力の存在を常に感じながら生活を送らなければならない。その存在が、楽しいよと素直に言いたい気持ちに重く蓋をしようとしているのかも知れない。若しくは、生活のほとんどの場面で、うんざりするほどの人に囲まれているせいなのかも知れない。
ただ、日本人の一〇人に一人は東京に暮らしているわけなのだから、それが特別なことでもないし、そもそもそう言う質問自体が愚問なのかも知れない。僕は、そう思ったりした。
「ええ。まあ、楽しいですよ。」
ブーツさんの質問に僕はそう答えた。詰まるところ、これは会話の中での一つの決まった受け答えなのだ。
ハイウエイに出ると、ブーツさんはアクセル・ペダルを深く踏み込んだ。キャデラックは、大排気量のエンジンが持つ太いトルクにものを言わせ、静かに力強く加速した。比較的柔らかなサスペンションを持つボディーは、ほとんど目には見えない路面のうねりにゆったりとロールする。停車することの少ない、広くて直線的な道路を走り続けるには、このくらいのサスペンションが丁度いいようだ。
「ブーツさんは、日本ではどこに住んでいたのですか?」
「静岡よ。」
「アメリカにはどうして?」
「今の主人と結婚してこっちに来たの。」
彼女は、五〇歳を過ぎていると思われる。国際結婚をしてアメリカで暮らすということが、現在ほど普通ではなかったかも知れない。
「大変だったのではないですか?」
少々失礼かなとも思ったが、僕はそう尋ねた。
「そりゃあ、もう親戚中大騒ぎよ。」
からからと笑いながら彼女は答えた。僕自身、アメリカで暮らしてみたいと以前から思っていたので、羨ましい気もしたが。
ハイウエイを降りてからしばらく走り、到着したのはD・M・Vだった。L・AでもD・M・Vは一度訪れている。その時は結局無駄足となったので今回も期待は出来ない。しかし、差し当たってはここから始めることとなった。
受付の列に並んで順番を待っていると、隣の列に並んでいた白人男性がブーツさんに何か話しかけて来た。二人とも親しそうに会話を交わしている。男性は腕を振り回して、白人らしいオーバー・アクションだ。自分の順番が来たことに気が付くと、彼はまだ話し足りないと言った表情でカウンターへ向かった。
「知り合いですか?」
彼の後ろ姿を見ながら、僕はブーツさんに尋ねた。
「知らない。彼、前に日本で暮らしたことがあったんだって、少しね。」
「はあ。そうなんですか。」
ようやく我々の番が来て、僕たちはカウンターに進んだ。
「§☆カレノオートバイガ◎◇ケイサツガ◆・トウロクヲ◎§◇.」
「→・◆ニホンジン◇◇・ノー《→§→.」
ブーツさんと担当の黒人の女性が話を始めたが、僕には、所々単語を聞き取るくらいにしか話の内容は分からなかった。係の女性が時々僕に視線を向けるので、その都度、目を少し大きくしたり唇の端を少し持ち上げたりしていただけだった。しかし、唇を結んで頭をゆっくり横に振る仕草を彼女が度々繰り返すようになったので、僕にも大体の状況の察しは付いた。ブーツさんも簡単には引き下がらなかったが、その内に会話は終わった。
「行きましょうか。」
ブーツさんが振り返って言った。僕は頷いて従うだけだった。建物を出て車に乗るまでの間ブーツさんは何も話さなかったが、結果はL・Aでの時と同じだろう。車に乗り、ここから割りと近いというブーツさんの自宅に行って作戦を練ることにした。
ブーツさんの自宅は、森に囲まれた大変に静かな場所にあった。
道路から降りると、ロータリーになったスペースがある。その中心の、コンクリートで丸く囲まれた段に、背の低い木が植えられている。ロータリーからは、三本の舗装されていない私道が伸びて、それぞれ三軒の家へつながっていた。そのうちの一軒がブーツさんの自宅のようだ。この三軒以外に、すぐ近所に家はなさそうだった。
「この向こうには大きな池があるの。」
自宅の裏の方を指して、ブーツさんが言った。まるで軽井沢かどこかの別荘地だ。
玄関を入ると、一面に絨毯が敷かれていた。慣れていない僕は、土足で上がることに躊躇した。
「大丈夫よ。そのままお上がんなさい。」
「おなかが空いたわね。何か食べながら考えましょう。」
彼女がキッチンへ消えると、毛の長い猫が入れ替わりに入って来て、ソファに座った僕の横で丸くなった。
「お前もアメリカンか?いいねえ。」
「ダメね。」
受話器を置いてブーツさんは言った。表情には少し疲れが見える。何も変わらないまま時間だけが過ぎていた。もう夕刻が近い。
ブーツさんは車両登録に関しての専門家ではないので、二人で案を練って、思い付く先に彼女に電話をかけてもらうより方法はなかった。先ずは、ホテルからの電話で僕が話すことの出来なかったあちこちのカー・ディーラーに電話を掛けた。それから修理工場、警察、運送会社にも当たってみた。政府機関にも、思い当たるところ全てに片っ端から電話をかけた。しかし、ついに解決策を見つける事は出来なかった。これ以上幾らやっても同じだろうし、僕たちは既に万策尽きていた。旅行者である僕に、プレートを取得することはやはり不可能な事のようだった。
「いいです。出来る限りの事はしたのですから、諦めます。」
つらい決断だった。二人はしばらく黙った。
「ありがとうございました。」
僕はブーツさんに礼を言った。よくここまで親身になって下さったものと思う。
「お役に立てなくて。」
「いいえ。十分です。」
また言葉が出て来なくなった。僕は奥歯を咬んだ。しかし、気持ちを切り替えなければならない。ここから日本に帰るにしても、やらなければならない事はたくさんある。
番号を調べて日本通運に電話をかけた。電話に出たのは日本人女性だった。
「オートバイを日本に送りたいのですが、可能でしょうか。」
彼女は少し待つように言い、しばらくして男性が電話口に出た。僕は、彼にも同じ質問を繰り返した。
「こちらで乗っていたオートバイですか?」
「いいえ。日本に送り返す前提で、二十日ほど前に貨物船でL・Aに送って来たものです。」
「書類はありますか?」
「はい。あります。」
僕は、手元に用意していた書類の内容を彼に告げた。すると、電話の相手は小さく唸った。
「それではちょっと・・・。調べてすぐに折り返します。」
僕は、ここの電話番号をブーツさんに教えてもらい、それを彼に伝えて電話を切った。
またか。僕は思った。オートバイの輸出入に関するトラブルが終始ついて回る。不安感が募った。
「何か問題があるの?」
テーブルの椅子に掛けていたブーツさんが不安そうに言った。
「ええ。詳しくは分からないのですが。そんな様子でした。」
少なくなったカップのコーヒーを飲み干して、僕は煙草に火を点けた。輸出入に関する専門用語が英語で書かれている書類をいくら見ても、何がどうなのか僕にはさっぱり分からない。
日本通運からの電話がかかってきたのは、一〇分ほど経ってからだった。
「やはりですね。その書類では輸出を依頼した業者に頼んだほうがいいでしょう。ウチでやるとすると三〇万は必要になります。横浜の業者さんの不備ですね。」
僕は愕然とした。復路にかかる費用は、高くても一五万というのが横浜のD社の話だった。例えそれが他の業者の手で行われてもである。ここに来てまたD社だ。これではオートバイの往復輸送料だけで総額五〇万もかかることになる。かと言ってこちらでオートバイを売ることも出来ない。泣き面に蜂だった。もっとよく調べておけば良かったとも思ったが、オートバイの輸送は手続きが複雑で割に合わないからと輸送会社に何度も断られたほどである。素人の僕にどれだけの事が調べられただろう。
他に方法もないので、僕は、日通に往路の依頼をする事にした。僕も金が余ってこんな旅をしているわけではないが、選択の余地はなかった。優柔不断に決めかねている場合でもない。
「それでは、費用は日本でオートバイを受け取る際にお支払いください。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
オートバイが保管されている場所までは、日通が引き取りに行ってくれる事になった。僕は、彼にレッカー会社の住所と電話番号を伝えて受話器を置いた。
しばらく落ち込んでいたかったがそうもしていられず、すぐに日本航空に電話をかけた。航空券を成田―L・Aの往復で買ってあるので、D・C発に変更しなければならない。オープンなのでどのようにも変更は出来るが、しかし、ここでも結構な差額を払う必要があった。明日の便では忙しすぎるので、明後日の便を予約して僕は電話を切った。オートバイの輸送費とブーツさんへの支払い、それに航空券の差額を合計すると、それはかなりの額になった。帰国したらD社に怒鳴り込みに行こうと思った。
念のためL・AのT・C社にも電話を掛けて、帰りの輸送を変更する旨を伝えておいた。後は、日通がオートバイを取りに行くことをレッカー会社に伝えれば全て終了する。それで全ては終了だ。
あの日渡されたレッカー会社の名刺を取り出して、その連絡はブーツさんにお願いした。
「新しいコーヒーを入れたから飲みなさいよ。」
「すみません、いただきます。」
僕はソファーから立ち上がり、テーブルでコーヒーを口にした。煙草に火を点け、どん底の気分を味わった。もう走る事は出来ないのだ。悔しかった。
「今度はもっとよく調べてもう一度来よう。そうして残りの予定を走ればいい。」
前向きに考えようと努めたが、そうすぐに立ち直れるわけもない。しかし、目的を達成出来なかった事は残念だが、結果がどうであれこれも経験だ。煙草を一本灰にする頃、ようやく気持ちの整理だけはついてきた。
少し離れた電話口でブーツさんが話す声が聞こえるが、内容は分からなかった。それにしても会話が随分と長かった。これ以上ややこしい事にならなければいいがと心配になってくる。
電話を終えたブーツさんが、テーブルに戻って向かいの椅子に腰を掛けた。神妙な面持ちだった。やはり何かあったのか。そう思って僕は不安になり、ブーツさんの顔をのぞき込んだ。
「まだ楽観は出来ないんだけどね。プレートが取れるかもしれないって。」
「へっ?」
レッカー会社のオーナーの知り合いに、車両の登録などを専門に扱っている人物がいて、その人が仮のプレートを発行してくれるかも知れないと言う。未登録の車を公道で走らせるために、赤い線の引かれた仮プレートを付けて走っている車を日本でも見かけるが、おそらくそのようなものなのだろう。ただし、これは合法ではない。だからと言って違法でもないらしい。保険に加入することが前提らしいが、その掛け金も大した額ではないらしい。らしいらしいばかりだが、彼も当人ではないのでハッキリとしたことは言えないようなのだ。取りあえず、明日もう一度電話をくれるように言われた。
これがブーツさんに聞かされた話の内容だった。
僕は、その言葉をにわかには信じる事が出来なかった。あれほどいろんな所に電話をしても糸口すら掴めなかったのだから仕方あるまい。諦めて帰りの手続きを全て済ませて、最後に残った電話でこんな情報が得られるとは、思いもしない事だった。まだハッキリしない?いいや、大丈夫に決まっている。ここに来て、今更ひっくり返るはずはない。何の根拠もないが、僕はそう確信していた。しかし、さすがにお役所とは違う。蛇の道は蛇とでも言おうか。こんな時には、現場で働く人間の柔軟な知恵が頼もしい。もう一度走ることが出来るかも知れない。突然に降って湧いた希望に、僕の気持ちは喜びを過ぎて動転していた。そして、その話を聞いて僕の口から出た言葉は。
「ほんとですか?」
この間抜けな一言だけだった。
「まだどうなるのか分からないけど、結果が出るまでウチに泊まって行きなさいよ。」
「でもブーツさんも仕事があるでしょう。迷惑ではないですか?」
「いいのよ。明日はあなたに付き合うのが仕事だし、明後日は土曜でお休みだからね。」
「そうですか。では、甘えさせてもらいます。」
「娘が使っていた部屋が空いてるから使いなさい。」
その言葉を聞いて、ブーツさんの家族については何も話していなかった事に気が付いた。娘さんがいるという事も今初めて知った。もともとそう言う話に立ち入るのは好きではないし、オートバイのことで頭が一杯だったので訳もない。
「娘さんがいるのですか?」
「ええ。今は大学に通っていて、向こうで一人暮らしをしてるからここにはいないけどね。」
「じゃあ、今はご主人と二人で?」
「そう新婚気分よ。」
そう言って、ブーツさんはまたからからと笑った。ブーツさんに対する僕の印象は、慎重だが陽気で、何事に対してもはっきりした人と映っていた。
「でも、娘さんがそばにいないと寂しくはないですか?」
「元気でいて、たまに帰って来てくれればいいのよ。」
「そうですか。」
「あなたもしっかり親孝行しなさいよ。」
「はあ。」
言葉がなかった。「いいかげんに結婚なさい」が、僕の両親の長年にわたる口癖だ。その内その内と言いながら何年経ったことか。歳月だけがいつの間にか過ぎて行くので困る。
その時、玄関が開いて誰かが入ってくる気配がした。
「主人が帰って来たみたい。」
ブーツさんが言うと、ドアが開いてスーツを着た背の高い男性が入って来た。
ブーツさんは、コーヒー・カップを手に椅子に腰を掛けたままご主人に声をかけた。当然英語だが、お帰りなさいというような意味のことを言ったのだろう。
僕は立ち上がったものの、何と言えば良いのか咄嗟には思い付かなかった。
「どうも。」
結局、小さく手を広げて、そう日本語で言ってしまった。
それからブーツさんが、僕が何者かをご主人に説明した。その後はブーツさんを介しての三人での会話となった。しばらくは、僕がいかに無茶をしたのかという内容になった。
「さてと、夕食はどうしましょうか?」
話しが切れたところでブーツさんが言った。それからご主人にも同じ事を聞いた。
「あなたは何が食べたいのかって主人が聞いてるわよ。」
「肉です。」
咄嗟に口を突いて出てしまった。いくらアメリカでは肉が安く手に入るとは言え、この答えで果たして良かったのだろうか。言ってから僕は反省した。
暗くなっていたので、ヘッド・ライトを点けて車を走らせた。
今はブーツ氏がハンドルを握り、僕は助手席に座っている。ブーツさんは、夕食の支度をするために一人家に残った。ブーツ氏は、日本人と結婚していると言っても、日本語は片言も話せなかった。僕の英語も誇張をして片言程度だ。お互い思うように意志の疎通が図れず、車内は会話が成り立っているのかどうかも怪しい状況だった。ブーツ氏が難しい質問を避けてくれるので何とかなっているような気はしたが。しかし、言葉の通じない相手に接することに、少しは僕も慣れてきたのかも知れない。緊張することはなかった。
真っ暗な何もない道路を一〇分ほど走ると、不意に大きなスーパー・マーケットが現れた。周囲には他の建物はなく、暗闇の中にそこだけ浮き上がるように建っていた。
だだっ広い駐車場に入り、入り口近くまで走ってから空いたスペースにキャデラックを停めた。店内に入って買い物カゴを取ったブーツ氏は、それをそのまま僕に手渡した。
かごを持って彼に付いて歩くと精肉コーナーがあったが、そこは肉だけでもかなりのスペースを使っていた。日本のスーパー・マーケットなら、魚と野菜のコーナーも入るようなスペースだ。肉はパックに入れられて、無造作に冷蔵ケースに放り込まれている。その一つ一つがこれまた大きな塊で、値段を見ると驚くほど安い。アメリカの家庭では、数日分の食料をまとめて買って自宅の巨大な冷蔵庫に入れておくらしいが、この馬鹿でかい肉の塊とその値段を見れば、なるほどそれが普通だろうとも思えてくる。
僕も普段から自炊を心掛けており、休日にスーパー・マーケットに行って一週間分の食料を買いだめしている。外食をするより安上がりだし、シャワーの後、借りてきたビデオを見ながらビール片手に夕食を頂くのも結構贅沢な気分が味わえるのだ。そんな僕にとって、このアメリカのスーパー・マーケットの食料品、特に肉のボリュームと値段の安さは実に魅力的だった。
「どれがいい?」
並べられたパックを指しながら、ブーツ氏が言った。しかし、大きな塊どもに目移りがしてなかなか選ぶことが出来なかった。どれもこれも食べたてみたかった。結局、たくさんの中から、骨付きの塊を手に取った。これ一つで、三人でも食べ切れないのではと思うほどの大きな塊である。しかも、値段は一〇ドルとしない。食べ放題である。しかし、彼は同じ塊を三つ、僕の持つかごに入れた。僕の心の奥で、ふつふつと闘争心が沸き立った。
「食ってやる。」
他にも野菜などの食材をたっぷりとカゴに詰め込み、二人でキャッシャーに並んだ。ブーツ氏が支払いをする間、僕は受け取ったカゴの中の物を紙の袋に詰める作業を行った。
「これなら、毎日バーベキュー・パーティを開くことが出来る。」
ずっしりと重いその紙袋を両腕で抱え、僕はそう思った。いっそこのままアメリカに住みたいほどだった。
家に戻ると、ブーツさんはたくさんの皿をテーブルに並べて準備の最中だった。
「お帰り、気に入ったものあった?」
「ええ。もう、たっぷりと。」
「そう、良かったわね。主人と一緒にお肉を焼いてくれる。」
ブーツ氏は紙袋から牛肉の塊を取り出し、慣れた手つきで分厚くスライスしてから調味料を擦り込んだ。そして、それを乗せた皿を手に持って、付いて来いと僕に手招きをしてベランダへと出て行った。
「スパイダー。」
窓を出る時、彼は僕に振り返って、頭の上を指してそう言った。窓枠に、日本で見る女郎蜘蛛のような蜘蛛が大きな巣を張っていた。夫妻は、無断で間借りしているこの蜘蛛をむやみに取り払ったりはしないようだった。彼は、気をつけるようにと続けて言った。
ベランダには、バーベキューのための大きめのコンロが置いてあった。ブーツ氏が炭を入れてから火を付けた。少しずつ炭の量を増やして、やがて十分な火力になった所で肉を網に乗せた。激しく肉の焼ける音がして煙が上がった。辺りに、香辛料の香りが広がった。
食べ頃に焼け上がった肉や野菜を皿に盛り、テーブルに並べてようやく格闘開始だ。各自のグラスをビールを満たし三人で乾杯をした。これがゴングだった。
僕はグラスの中のビールを一気に喉に流し込んだ。それから、ナイフとフォークを手に大きな肉の解体に挑んだ。肉は香辛料がよく効いていて、ビールと共にどんどん食が進む。肉自体の味も、日本で買うものと違いはない。手を休めることなくナイフを入れ、次々に口に放り込んだ。
テーブルに並んだ料理を三人で全て平らげた時、ブーツ氏が奥さんに何か話しかけた。
「お酒は好きか、だって。」
ブーツさんが、日本語に直して僕に伝えてくれた。
「ええ、大好きです。」
僕が答えると、ブーツさんがそれをまたご主人に伝えた。
「下にいろんな種類のお酒が置いてあるから見に来ないかだって。」
「そうですか、ぜひ。」
ブーツ氏は、やけに嬉しそうな表情をして席を立った。酒飲みだと言うわけではなく、酒について話をしながら一緒に飲める相手がいることが嬉しいのだろう。僕にもそれはよく分かる。僕も同じような表情で彼の後に続いた。
階下に降りてガラス扉の付いた棚の前に行くと、中にはたくさんのボトルが並んでいた。スコッチ、バーボン、グラッパ、コニャック、ウオッカ、ジン。僕も酒の種類について多少の知識は持っているつもりだったが、まるで知らないものまで様々な酒が置いてあった。彼はよほどお好きなようだ。
「どんな酒が好きなんだ?」
彼がゆっくりとした口調で言った。
「そうですね、ウオッカとか。」
「ウオッカか。食後にはもっと甘い酒の方がいいな。」
「ええ。でも、いつも食後にはウオッカなんですよ。」
僕は、食後に口の中に残っている味を消すような辛いものや苦いものを好むので、ブーツ氏とは好みが異なるようだった。酒の飲み方は人それぞれ自由なのだが、一応セオリーはある。一般的に言えば正しいのはブーツ氏の方で、僕のは少し変わっていると言える。結局、ブーツ氏はブランデーのボトルを取り出し、僕は冷蔵庫のフリーザーで冷やしてあったストリチナヤというウオッカを飲むことになった。
「どう?好みは合った?」
リビングに戻ると、ブーツさんがコーヒー・カップを片手にテーブルに着いていた。
「僕が少し変わってるので、ご主人とは正反対になってしまいました。」
「あら、そうなの。」
ブーツさんがご主人に何か話しかけ、二人は笑っていた。酒の用意をしていたブーツ氏が、グラスを三つ手にして椅子に腰掛ける。僕の前には、フリーザーで冷やされて少しとろみのついたウオッカが注がれたグラスが置かれた。
「じゃ、もう一度乾杯。」
シャワーを浴びて、壁に家族の写真が幾つも掛けられた廊下を通り、ブーツさんに案内された部屋に入った。
「それじゃ、明日は八時ね。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
ドアが閉じられ、僕は部屋を見た。女の子らしく飾られた部屋だった。さすがにこの部屋の主の許可なくここで休むことには少々抵抗を感じる。机の上には、フォト・スタンドがひとつ置かれてあった。見ると、セーターを着た大きな目をした女の子の写真が入っている。彼女は笑顔だった。
「この子が娘さんなんだな。」
大学生だから二十歳前後なのだろうが、日本の同じ年頃の女の子と比べると大人びて見える。
「この子にとって日本とはどんな国なのだろう。母親の母国として親近感を感じているのだろうか。それぞれに全く異なる国の両親を持つという事はどんな心境なんだろう。」
彼女が日本を好きでいて、出来れば、日本に関わりを持ちながら人生を送ってくれればいいと思った。僕の勝手な思い申し訳無いのだが。
八月二六日 二一時三七分
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